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社会・全般
2010年10月9日(土)15:43

上野字野原集落/伝統の祭りが堅いきずなに

上野字野原の概要
 野原岳の南側に位置する集落。14世紀半ばごろウプダキ村と称され、現在、航空自衛隊通信基地のある付近に大嶽城があった。昔、大嶽按司(ウプダキアズ)の築いた村は、与那覇原軍との戦いで破れ、その後、子孫もわからなくなり廃村となっていたが、1716年、新たな村として建てられ野原村となる(『雍正旧記』による)。当時の大嶽城の東門だった場所が今も残る中御嶽(なかうたき)とされる。1908(明治41)年、特別町村制が施行された際、野原村は下地村字野原となり、さらに48年には上野村字野原となった。その間、40年には、花切・ウナトウ・ニガカリの3集落が野原から分離して豊原区を形成、51年には千代田区も分離独立した。現在の人口は8月末現在で251人(104世帯)。自治会長は砂川恵俊さん。


 ジュウゴヤの豊年祭 

先輩たちの励ましを受けて、踊りに参加した女性たち

先輩たちの励ましを受けて、踊りに参加した女性たち

 毎年旧暦の8月15日は中秋の名月、ジュウゴヤ。地域によって、綱引きや獅子舞い、引き踊りなどさまざまな催しが行われるが、野原集落では、伝統の「マストリャー」(豊年祭)が公民館を中心に行われる。1980年に指定された国選択の無形民俗文化財。午前中に始まる祈りから、深夜の棒踊りや巻き踊りまで1日中かけて集落をあげて行われる伝統文化。
 粟や上布などを貢祖(こうそ)として納めていた人頭税制のころ。納税を済ませた秋、粟のわずかな残りを各戸から一定量、マスムトゥ(舛元)に集め、女たちがこれでミキ(神酒)を作り神に捧げた後、マスムトゥでは男たちがごちそうを持ち寄ってミキをくみ交わし、1年間の労をねぎらうのが習わしとなった。こうした行事を豊年祭として楽しんだ。
 集落は4組に分けられ、マスムトゥとなる家は方角に従って子組、寅組、午組、申組と呼ばれる。今では役員の家を中心に4ムトゥがあり、そこに男たちが集まる。ジュウゴヤとなった先月22日、満月が頭上にさしかかるころ、ムトゥから青年男子5人が一組となって棒踊りを演じつつブンミャー(公民館)に向かった。途中の辻でも奇声をあげながら踊り志気を高める。女たちはすでに紺地の着物に白はちまきを後ろ結びに垂らし、ブンミャーで待機していた。
 4ムトゥが揃ったところでブンミャーに入り、青年男子は五人棒を、女たちは前列がクバ扇を、後列が四つ竹を持って投ぎ踊りと抱き踊りを繰り返した。最後は全員で巻き踊りでクイチャーを踊り、老若男女一体となって踊り明かした。男たちの激しい棒踊りと、女たちのゆったりとした静かな踊りが円陣の中にあり、月明かりの下、静と動の織りなす不思議な世界が繰り広げられていた。


楽しかった「子どもジュウゴヤ」/地元の砂川さんが語る

 この日は、宮古島市博物館友の会(下地和宏会長)の会員十数人も参加して、ジュウゴヤを楽しんだ。ブンミャーに棒踊りの男たちや豊年踊りの女たちが入場する前、午後9時から公民館で学習会が行われた。講師は野原出身の砂川肇さん(57歳。博物館職員)。幼いころの「ジュウゴヤ」の思い出を語り、無形文化財であるマストリャーも時代と共に変化してきていることを憂えた。
 私が、マストリャーを意識したのは、高校2年生のころから。それまでは、大人たちの祭りとしか認識していなかった。子どもは子どもで、自分たちのジュウゴヤを楽しんでいた。一月前から、みんなで集まって企画をたて、ジュウゴヤ相談をした。言ってみれば夜遊びの始まりかもしれないと話し、会場を和ませた。
 男の子たちは、気の合った者同士でグループを作りジュウゴヤの準備をした。舞台を造ったりということで、他のグループのサグリに行ったりもした。こずかいを出し合い、飲み物や食べ物をどうするか話し合った。爆竹をたくさん手に入れられる者がボスになる要素をひめていた、と話し、当時の子ども文化をのぞかせていた。
 この後、元県教育庁文化課専門員の幸地哲さんのまとめた資料をもとに、マストリャーの歴史や、当日巡拝する御嶽、マスムトゥの配置などを学んだ。砂川さんは最後に「時代と共に伝統的踊りの継承が難しくなっている。基本的な部分が崩れてきており、統一する時期にきている」と話した。

「集落は戦場だった」/与那覇さん「平和の森」造成に意欲
 集落の南端に太平洋戦争にかかわる二つの記念碑が建つ。一つは、戦時中宮古に駐屯した高澤義人さんの歌碑。「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸焼きし宮古よ八月は地獄」。東京在の高澤さんが1998年、50年ぶりに宮古を訪れこの歌を詠んだといわれている。その後、2005年8月15日に歌碑建立実行委員会によって建立された。08年、並ぶように建てられた「アリランの碑」は、近くに慰安所があったという証言のもと、「宮古島に日本軍慰安婦の祈念碑を建てる会」によって建立された。
 いずれの碑も、野原出身の与那覇博敏さん(77)の土地で建てられ、反戦平和を願う人たちが訪れるピーススポットになっている。与那覇さんは、当時小学5年生で、朝鮮の女性ともとも何度か会話をしている。「近くのツガガーに洗濯に行った帰りと思うが、数人この付近でよく休んでいた。時にはトウガラシを分けて欲しいと言われ、最初何のことだか知らなかったが、先輩にクースゥのことだと教えてもらい、屋敷内にあるクースゥを両手にいっぱい上げると、とても喜んでいた」と振り返る。
 記念碑のある一帯は、近くに飛行場があり、特攻隊の宿舎、慰安所、朝鮮人軍夫の働く鍛冶屋などがあり、まさに戦場の様相だった。そんな中で育った博敏少年は戦争の悲惨さを身をもって体験した。「屋敷内に爆弾が2発落ち、家が吹っ飛ばされた。防空壕に非難していて命拾いしたが、その後は家族5人馬小屋で生活し、食べ物もわずかに残った野草などで食いつないだ。今生きていることが不思議なくらいだ」と涙をにじませる。
 慰安所は、宮古島だけでも16カ所確認され、野原には20人内外の慰安婦がいたのではないかと言われている。与那覇さんは「最初は30人規模の茅葺き兵舎だったと思うが、そのうち、奇麗な姉さんたちが出入りして、後でその人たちが朝鮮から連れて来られた慰安婦だということを知った。日本語は流ちょうだった」と話す。こうした戦争の醜さを二度と味わいたくないと、与那覇さんは所有地約1500坪を無償提供、記念碑を建て、残った部分は、宮古特有の樹木を多く植栽した「平和の森」にしたいと、今から構想を練っている。


人々の寿命を決める場所/タマザラ御嶽(霊石)

12方位の神が降りてきて住民の寿命を決めたといわれる霊石

12方位の神が降りてきて住民の寿命を決めたといわれる霊石

 航空自衛隊基地前の道路を平良向け約100㍍ほど行くと右手に森があり、道路脇に文化財の標識。参道に入って左手の緩やかな坂を上ると松林の広場に出る。広場奥の右手には円柱形の霊石(トラパーチン。直径1.1×高さ1.3㍍)があり、手前には香炉代わりの自然石が置かれている。この霊石がタマザラ御嶽のイビといわれている。
 『宮古島庶民史』によると、この霊石は14世紀半ば野原岳にあった大嶽城の守護神で城の北端、野原岳の最高所に安置されていたが、戦後、米軍の航空レーダー設置工事に伴い、現在地に移動したという。この霊石は、宮古の民話にも登場し、「子どもの寿命を伸ばしてもらった話」として語り継がれている。また、「野原岳の霊石」として、1956年、県の史跡文化財に指定されている。(「『平良市史』第9巻・御嶽編」参照) 



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