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ペン遊・ペン楽
2011年6月8日(水)23:50

近代宮古の歴史に学ぶ/仲宗根 將二

ペン遊ペン楽2011.6.9


 1、三つの「事件」
 近代宮古の出来事で日本史上に登場し、教科書にも掲載されて広く知られている事件が三つある。「台湾遭害事件」「博愛記念碑」「久松五勇士」である。
 遅れて近代を出発した明治国家日本が、欧米列強に追いつくために、「殖産興業」と「富国強兵」を二大基本政策に、帝国主義国家として成長していく過程に利用された事件である。


 2、台湾遭害事件
 1871(明治4)年、首里王府に貢租(穀物と織物)を納めて帰途についた宮古船が、逆風にあって台湾東南岸に漂着し、乗員69人のうち54人が現地先住民に殺害された。その報復のために近代日本初の海外出兵となった事件である。琉球国→琉球藩→沖縄県へと至る「琉球処分」を早める契機となったばかりか、さらには「分島問題」にまで発展した事件として知られている。
 琉球処分は1879(明治12)年、琉球藩(国)を廃し沖縄県を設置したことで、一般に廃藩置県とよばれているが、軍隊と警官隊-強権による併合である。その上、琉球国と冊封関係にある清国(中国)から抗議されると、一転して今度は、沖縄本島は日本、宮古・八重山は中国とする条約案に同意してしまう。国家権力のご都合主義のよき見本といえる。

 3、「博愛記念碑」
 1873(明治6)年夏、中国~豪州間のドイツの貿易船が台風で宮古島南岸、宮国沖合の干瀬に坐礁したさい風雨の中救助し、34日間介護ののち無事帰国させた。3年後の76年2月、ドイツ国皇帝が漲水港(現平良港)近い小丘に石碑を建立し、感謝の意を表した。一般に「博愛記念碑」とよばれている。
 1936(昭和11)年11月、建碑(救助ではない)60周年記念事業は、日独両国代表参列のもと、3日間にわたって盛大に催された。主催は宮古郡教育部会だが、後援は、沖縄県、外務省、日独協会、日独文化協会、ドイツ文化研究所、朝日新聞、毎日新聞など。祝辞は、総理大臣はじめ、内務、外務、文部、海軍各大臣が寄せ、ラジオ、全国紙が日本とナチスドイツとの友好親善を大きく報じている。その旬日後、日独防共協定、ついで日独伊三国軍事同盟、第二次世界大戦へと突き進んでいる。

 4、「久松五勇士」
 1904(明治37)~05年の日露戦争は、日露両帝国が朝鮮・満州(現中国東北3省)の権益をめぐっての戦争であった。ロシアの大艦隊が決戦場となる日本海へ向かっているとの通報を受けたものの、通信手段のない宮古郡当局は、久貝・松原の5人の若ものに130㌔余の大海をサバニで渡り、石垣島の電信局から通報させた。しかし「ロシア艦隊発見」はすでに哨艦信濃丸から打電されていて、結果として5人の命がけの苦労は奏効していない。
 4年後の09年12月の県議会で、宮古選出議員は、03年5月、軍艦東雲号が八重干瀬で遭難したとき池間村民を小舟で石垣島へ派遣し打電させた。日露戦争でも同様小舟で石垣島から急報させたが、宮古に電信局があったなら海戦は違った展開をみせたであろう趣旨の発言をしている。
 1918(大正7)年5月「海軍記念日」(5・27)に宮古出身の佐久田昌教沖縄県師範学校教諭は久松の5人の若ものの行為について生徒に講話している。感激した同僚の稲垣国三郎教諭は同年冬、宮古出張のさい、直接聞き取りなどして、周知の「遅かりし一時間」にまとめた。1929(昭和4)年発行の五十嵐力早稲田大学教授編さん「純正国語読本」に掲載され、全国の中等学校で使用されている。
 翌30年、5人には女子学習院の教授から扇子、県知事から金一封、35年には海軍大臣表彰はては「肉弾三勇士」になぞらえて「久松五勇士」と称され、演劇、映画、レコード、浪曲、琵琶歌などで全国に知られるようになった。

 5、再び利用されぬよう…
 時まさに「十五年戦争」5人の心のうちはどうあれ、国威発揚・戦意高揚に利用されたのである。
 尖閣諸島や北朝鮮、下地島空港等に関連して、さまざまな文化的装いのもと、自衛隊配備等も取り沙汰されている。「人命救助」「命がけの力漕」など、本来「美談」である。それゆえかえって利用されやすいのであり、軽視してはならない。
(宮古ペンクラブ会員)

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