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私見公論
2011年10月29日(土)23:05

新企画・私見公論④宮古島の観光を考える

渡久山 明(とくやま・あきら)


渡久山 明

渡久山 明

 自分でも信じがたいのですが、この欄の執筆を引き受けてしまいました。たいしたことは書けませんが、観光業務に携わりながら感じたことや、思ったこと等を中心に述べることにします。


 本島から宮古に戻って間もなく昭和52年に宮古観光協会に任用されたので、40年代の宮古の観光事情等については詳しくないのですが、宮古観光協会は昭和38年に設立され、観光地の整備をはじめ、道路標識の設置、観光パンフや絵葉書の発行、写真展の開催等、数多くの観光振興事業を実施しております。その頃の観光パンフには、久松五勇士顕彰碑や博愛の石碑、人頭税石、豊見親墓等の史跡を中心に、桟橋からの荷を運ぶ馬車等が紹介され、宮古島は静かでのどかな雰囲気の感がし、当時の人々の観光への関心はまだまだ低かったように思います。

 復帰後、昭和53年の若夏国体、そして55年の沖縄海洋博の開催に向けて、宮古、石垣を含め県内に多くのホテルが建設され、沖縄観光は年々増大し大きく変化してまいりました。中でも、石垣の観光が、竹富島をはじめとする魅力的な島々、そして水牛、星砂等々の島固有の資源を活かし、沖縄観光の代表格へといち早く急成長を見せましたが、それには大手旅行社等を株主とした石垣グランドホテルの果たした役割が大きかったのではないかと思います。

 石垣観光の伸びは宮古観光にも大きく影響し、昭和54、55年頃、新婚客がどっと押し寄せ、にわかに宮古でも観光への関心が高まりました。

 その頃は、「台風情報でしか宮古島を聞いたことがない」と言うほど、宮古島は旅行業界の人にもほとんど知られていなかったのですが、旅行社の視察研修団や、航空会社、雑誌社等の取材班が頻繁に来島するようになりました。そのような状況をうけて協会理事をはじめとする観光関係者は、「宮古の海は世界一、宮古の受け入れは万全です」と、必死になって宮古観光のピーアールに努めるとともに、新婚の森、観光バスガイド養成など新たな事業にも一丸となって取り組んでおりました。また、「日本一早い、宮古島の海開き」として、県内で最初の開催となった海開きには協会全体で取り組んできたものです。しかし、日本一早い海開きは、翌年には石垣に譲りましたが、参加者・観客動員数は今でも日本一ではないかと思います。

 さて、来島する視察団や取材班を島内の観光地に案内しましたが、満足いただけたのか、と不安もいっぱいでした。宮古島についての勉強不足もあってうまく説明できなかったこともありますが、その当時、一周道路はまだ整備されておらず、東平安名崎や上野へ行くのに美しい海も見えない内陸の単調な道を走る案内でしたので、灼熱の太陽のもとにブロック塀やコンクリートの家がまぶしく、木陰もあまりなく、延々と続くサトウキビ畑の間を行き帰り同じ道でうんざりしてないのか、なーと思ったりもしました。

 しかしながら、私の予想と違い、観光客へのアンケート調査等では、海の美しさに感動し、素朴な人柄、親切なもてなしに感謝するなど、満足度も高く好評でしたし、旅行社の評価も高いものでした。ただ、平成10年ごろに日本交通公社が行った「満足度調査」だったかと思いますが、「もう一度来たい」という回答が、沖縄本島や県内の他地域に比べて大分低かったことが気になりました。

 また、観光客から、「宮古のおいしいものは何ですか」、「特産物等お土産は何がよいか」「雨の日、あるいは3日目はどこへ行ったらよいのか」「車がないのでバスを利用したい」等々の何でもないような質問にうろたえたりしたことを今でもよく覚えています。観光客のニーズに応えることで、宮古の生産、経済面でも良い結果を生むこともあるのではないかという視点で書いてみたいと思います。言うことは容易だが、実行となると多岐にわたる問題があり大変なことは承知しているつもりです。宮古で言うアイヤーミーミーですので宜しくお願い致します。


 渡久山 明(とくやま・あきら) 1949年生まれ。宮古島市(平良)出身。琉球大学法文学部卒。(株)サンエー、那覇グランドホテル、(株)セントラル情報処理センターを経て、77年(社)宮古観光協会主事、85年事務局長就任。2009年退職。

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