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2012年1月25日(水) 22:45

震災の予測と対策/久貝 徳三

2012.1.26 ペン遊ペン楽


 去年の3月、東日本を襲った大震災の話を聞いて、私は、天災の予測とその対策の必要性を強く感じた。



 そして、すぐに連想したのは、1771(明和8)年、石垣島と宮古島を襲ったという津波のことであった。歴史書には『明和の大津波』と書かれているが、『明和』は大和の年号で、当時の宮古の人たちは、この津波をこのようには言っていなかったはずである。どのように呼称していたのか。


 200年余も昔、精度の高い計測機器は備わっていなかったであろうが、記録によれば、石垣島の南々東35キロの海底で地震が発生し、これによって起こされた津波が、石垣島の東南地域や宮古島に押し寄せて来て、大きな被害をもたらしたということになっている。八重山地域の遭難者数は人口の半数近くあったらしい。宮古地域でも2548人が死亡したと記録にある。


 ここでは、宮古島とりわけ下地島の被害に的を絞って書きたい。と言うのも、あの津波は狙い撃ちしたように、下地島を襲ってきた形跡があるからである。


 伊良部の下地島、今はパイロット訓練飛行場のある島として、全国に知られているが、かつては、木泊村という集落があり、牛・馬の牧場として利用されていたという。ところが、もともと表土の浅い島だったのであろう。が、津波によってその表土が洗い流されて、岩礁の島となり、無人島になってしまった。


 あの時の津波の威力を誇示するように、島の一角には、高さ12メートル周囲60メートルの『帯岩』が、鎮座している。岩に帯を巻いていたような印があることから、この名がついたとか。


 津波の発生源は、石垣島南東の海底である。下地島まで辿り着く前に、多良間島や水納島を襲ったはずであり、幾らかの被害はあったろうに、人が住めなくなるほど表土が流されたという記録はない。多良間島の標高は33メートル。下地島のそれは22メートルと言うが、その差が島の命運を分けたと考えるべきか。また宮古本島の東南部新里村や友利・砂川も被害を受けたというが、途中にある来間島の被害はきかない。下地島は呪われた島ということか。


 時は変わって、1960年、今度は地球の反対側、南米のチリで津波が発生し太平洋を超え、ここ南西諸島に押し寄せて来て被害をもたらした。沖縄本島北部の屋我地島では、この津波によって島に渡る橋が崩壊されるという被害をもたらした。宮古島にも押し寄せたというが、大きな被害はなかった。


 天災は、地球規模で発生し被害をもたらすが、自然現象の一部である。万物の霊長を自負する人間の英知で、その発生を食い止め、またはその発生を事前に予測し、対策を講ずることはできないものか、と希求するのは私一人ではあるまい。
(宮古ペンクラブ会員)