「We’re All Alone」(みんなひとりぼっち)/平良 加代子
2012.2.9 ペン遊ペン楽
1970年代前半、就学前の私は、父方の祖母と日中のほとんどを過ごした。だから、遊び相手は、みな60代~70代のお年寄りたちで、初めに覚えたのは、あいさつだった。
「なうしーがぁ、ざうかんもー?」
「あいまい、かいまい、んびゃいどぅ、うり」
あいさつはこんなものだと刷り込まれてしまった。そのため、幼稚園で初めて同年代の友達ができた時、恥ずかしい思いをした。友達の家の庭の前で、いつものように、「アグー、ナウシーガー」と声をかけたら、家人が驚いて出てきて、幼い私の呼びかけを知って大笑いした。走って帰って、なんで、笑われるのか?と祖母に訊いたら、「っさん、たんじぇ。」(知るもんか)と返された。それが祖母のいつもの口癖だった。
言葉の意味は荒いけど、祖母の口調はいつも穏やかで、私はまだ小さな子どもだった。
ちょうどその頃、沖縄や八重山、宮古島諸島をカメラで撮り続けたヤマトの人がいたらしい。東松照明というカメラマンは『ひもじくないか?』『さびしくないか?』とあいさつする島の人びとを愛し、『さびしさを思想化せよ』と島の若者たちに語ったらしい。あの時、おばあたちも日々問いかけていたのだろうか…
「どうだい? さびしくはないかい?」「なんだ、かんだで、生きているよ」
いつのまにか、40年余りの年を重ねて、私もさびしい大人になった。私の「さびしさ」の正体は何か?と訊くと、祖母が生きていたならきっと「っさん、たんじぇ」だ。
ある日「さびしい」という言葉の意味も祖母に教えてもらった。
いつも、白い箱のハイトーンを祖母は吸っていた。おばあの煙草はおいしいか?と訊くと、「あーい」(いいえ)といった。じゃあ、なんで吸うかしゃ、と言うとまた、「っさん、たっんじぇ…」代わりに、いつも一緒に姉妹のようにくっついていた、マイバイのカナおばあが答えてくれた。「淋すかいばだら」(さびしいからさ)…。
あの時、幼い私は納得できなかった。
(おばあなんでかよ、おばあはいつも、私のことを、「すなかぎ、まいふがガマ」と大事に可愛がってくれて、私が一緒にいるのに、なんでそんなこと思うかよ…)怒りのような、泣きたいような、不思議な感情が湧いてきた。思えば、それこそがきっと、「さびしい」キモチだったのだ。
人は、大人になって知る。何かを失った時だけが「さびしい」のではなく、家族や恋人や友人がいても、美味しいものを食べても、お金があっても、広い家に住んでも、偉い人になっても、誰もが「さびしさ」を抱えて生きていることを。そして、酒や煙草よりも笑いや歌、ぬくもりや、いい香り、やわらかいものや愛がほんの少し、それを忘れさせてくれることも…。
♪人間は皆一人だから 闇を掻き分け、共に歩く人求めてる♪
眼鏡がよく似合う女性ボーカルがカバーしている、「We’re All Alone」はせつなくも力強い。
「さびしさ」を自覚して生きることが、人間の強さであり、優しさかもしれない。
(宮古ペンクラブ会員)