宮古毎日新聞(電子板)の試読はこちらから|宮古毎日新聞社

2012年4月27日(金) 22:39

足元から気付く学び/伊志嶺 敏子

私見公論 27


 1978年5月26日、私は宮古で建築士事務所を開設した。事務所を主宰する力量があったかどうか、経験の力がものをいう業界に30歳でとび込んでしまった。今から思うと相当に大胆な行動であった、と思う。



 20代を奈良と東京、二つの都で過ごし、カルチャーショックを越えるため学びの日々であった。帰郷してみると、まるで様子の違うことに今度は、逆のカルチャーショックを覚えていた。


 私は島内をくまなく歩き、観察することから始めた。そして、かつて名棟梁とうたわれた方々をはじめ、いろいろな方々の話を聴く機会を得たりもした。ここには多くの学びがあると感動したのだった。


 なかでも、設計を依頼される「家主」さんからの要求は、足元から学ぶキッカケになるお宝ポイントがある。専門的理屈と素人的感覚がぶつかったとき、設計者の胸の内には大いなる不合理性に悩み、その原因に向かって飽くなき探究心が芽生える。


 事務所開設してまもない頃、郊外の住宅地での設計依頼があった。その敷地は、東側に道路があり住宅地全体は緩やかに南へ傾斜し、いわゆる風水的にも良好な場所であった。


 その頃の私は、まだ本土で身に付けた設計手法が色濃く残っていて、南側に庭を広くとるため、北側に玄関とそこへ続くアプローチ(通路)を配置した設計案を提示した。数日後「家主」さんからの返答は、なんと!せっかくの南庭の方に玄関を配置する案に書き替えられていた。提案した重要な庭が、玄関へのアプローチで切れてしまう。南側に独立した庭を広くとれば、プライバシーは保たれ、家そのものも南に面する窓も広くなり、夏は涼しく冬の寒さも防ぐことになり合理的な配置計画であると確信していたのだが、現実には受け入れられない設計案であった。この不思議。その後、決定案としては、東の道路から東向きに配置した玄関へとアプローチでつなぐことで解決した。しかし南に広い庭を設けるための北玄関がなぜ受け入れられなかったのか、という疑問は残ったのだった。


 その頃、会合のため石垣に行ったついでに、竹富島に立ち寄った。桟橋から歩いて集落の白砂の道に立った瞬間、その疑問が一気に解けた。


 道の様子がまるで違う。その道は両側の敷地と共有されておらず、南側に面する敷地のみが門を設けていて北側は閉ざされている。その結果どの敷地も南を向き、そしてどの家も南を向いて建っている。家々は明るい南側に入口を兼ねた一番二番三番座の表空間から裏座へという伝統的な沖縄の住まいの典型として同じ条件の敷地で成立している。


 そうか、古くからわれわれの先祖は開放された明るい向きから家に入る住まい方が元々あり、その遺伝子は今なお受け継がれているのだ。それは当り前のようなことではあるが、まるでトランプのカードが一気にめくれるような謎解きに、これが足元だ、と感動を覚えたのだった。


 そこには今時のような閉ざされた玄関はないが、石垣の門から軒下、表座までの間に庭があり、外と内の間に一定の距離があることと、奥の方には裏座があることで、家の私的領域(プライバシー)は緩やかに守られている。開きつつ閉じるという難題を巧みに解決している。なんともスマートなことか。


 そのときの気付きは担当した三つの団地の建て替え計画に反映し、関係性を育む環境づくりとして、プライバシーの「グラデーション」をコンセプトにリ・デザイン(再設計)を試みた。


 後にこれらの団地を見た東京のマンション設計チームの方がこのコンセプトを採用し、東京世田谷で「欅(けやき)ハウス」として完成している。完成後を訪れる機会を得たが、そこで目にした中庭の情景は、子供と大人が楽しそうに遊ぶ宮古のような風景であった。


 環境と人間の関係は鶏と卵の関係にも似ると言われるが、設計に携わる者としては、環境が人を育み、そこで育った人が良き環境をつくるという循環を心する、ということをこの足元から学んでいる。