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旧暦:3月15日 大安 丁 
私見公論
2012年6月29日(金)21:38

ふるさと(3)/渡久山 春英

私見公論 36


 国民学校の低学年の唱歌に「海は広いな大きいな 月がのぼるし日がしずむ」を学んだ。一歩外へ出れば海だ。海は庭のような遊び場であった。大海に向かって石を投げて遊んだものだ。地平線の彼方に夕日も見た。帰りは石ころ道を月の明かりに照らされて帰った。夜の海鳴りは子守歌を聞いているようであった。その海鳴りは台風の予兆であることを大人は知っていた。漁業で生計を立てる地区の皆さんは気象に敏感である。


 本土から宮古に移住した人がパイナガマで釣りをしながら「島が小さいことは海が広いことだ、島に山がないことは空が広いということだ」と言っていた。その通りだ。この意見に意地を張る必要はない。ふるさとの当たり前のことに気づかず、毎日をのんびり、ぼんやり、暮らしている自分を恥じた。山村の出身で山と川を見て育ったその人は、海に憧れるのであった。もっとも高尚な趣味は釣りだと断言する識者もいたことを思い出す。

 30年前までは宮古にも「カツオ漁」のバブル期があった。大漁旗のはためく漁船が海上ににぎわいを見せていた。宮古水産高校では海の男たちの競泳・遠泳の花盛りであった。そんな中、興味本位のまま海の上の仕事を見学したくて、カツオ船に乗せてもらった。

 午前3時、佐良浜港の漁船は一斉に焼玉エンジンを始動した。熟睡していた私に「ハイ ハヤマリ ウキル」。昨日から約束していたことだが、もっと寝かせてほしい思いであった。同時に、漁師の生活の厳しさを知った瞬間でもあった。そうだ、睡眠不足は船で寝ることで解消すればよいのだと元気をとり戻し、朝食のおにぎりだけ持って港へ行った。

 部外者に対して20名の乗組員は違和感を示していなかった。しかし漁師は縁起をかつぐものである。よそ者が乗船することで、もしも、不漁になればとんでもない迷惑である。そのとき「目には青葉 山ほととぎす 初がつお…山口素堂」を思い出し素直になった。

 漁泉丸は出漁の準備も整い、舫い綱を解いた。暗い港には人一人いない。乗組員の会話もない。みんな寝不足だろうか。聞こえるのは闇をつらぬくエンジンの音と船長の大きな声だ。「ボーソン ナウバイガ」「ジャウトゥードー」。何やら本船の調子の具合を確かめているようだ。船長は機関室へ速力を上げる合図の鐘を鳴らした。エンジンも快調。港を出た。

 カツオ漁は共同作業である。別のグループから雑魚(ジャグ)を受け取るために、下崎沖に立ち寄った。そこには年配の漁師がサバニで待っていた。生け簀のジャグは生き生きしていた。漁泉丸は池間島を後にして大海原へ出た。漁場を決めるのは船長の独断だそうだ。もう太陽は地平線より上だ。天気晴朗波静かなり。ボーソンは前泊功氏である。

 どの辺りを航行しているか知らないが、船長は「ノ・ノ・イ」NNEに進路をとるよう命じた。北北東へ羅針盤を据えた。きょうの漁場は決まったようだ。「大漁してくれ」。ボーソンは双眼鏡を手から離さない。左舷右舷を行ったり来たりしている。太陽は真上だ。乗組員も気が気でならないようだ。鳥山の発見を今か今かと待っている。そのときだ、「トリヤマドー」。船長はエンジン全開の司令を送った。漁泉丸は脱兎のごとく波頭を蹴って突進した。船上は騒いだ。20名はチョウシンガーを腹に巻いた。だれからともなく、竿を持って部所についた。海鳥の群れに近くなり、ジャグがまかれた。散水も始まった。船は停止だ。おお、カツオが空を舞った。おもしろい。甲板はカツオの山だ。しばらくして海鳥は別の所へ移動した。漁泉丸も終了した。みんなの足手まといにならないようにブリッジの上から、眺めるだけであった。帰りは大漁旗を掲げた。その日は旧暦十五日、大海原の地平線に「月は東に日は西に」の風情を味わいながら帰路についたのであった。

 今年10月6・7日にはカツオフォーラムが宮古島市で開催される。川上哲也前教育長の司会による盛会を期待するものである。ふるさとに豊漁の再来を願う。
(とくやま・しゅんえい)

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