2012年9月28日(金) 18:48

今を生きるわれわれが次の世代に引き継ぐもの(都市計画)/前里和洋

私見公論49


〈予期せぬ大震災に遭遇して〉 


 昨年3月11日、東北地方を襲った未曾有の大震災が発生した日、私は生徒3人を引率し、ストックホルム青少年水大賞、日本代表最終選考会に参加し東京にいた。そして、研究発表が終了したお昼過ぎ、今まで経験したことがない大きな揺れを受けた。事務局から「地震発生のため発表終了校は閉会式を待たずして帰路についてよい」との連絡があった。私は、一刻も早く生徒たちを安全な場所に移動させるため、沖縄へ飛行機で向かうべく羽田空港を目指した。
 しかし、公共交通機関は全線停止、タクシーは拾えず、後に帰宅難民といわれる人々と約5時間荷物を預けていたホテルまで歩いた。震災当日の朝、大惨事に遭遇するとは誰も想定していなかった。気象庁は、天気や台風は衛星を使い予想し報道する。しかし、科学技術が発展した現代社会においても地震だけは予知できない。日本は、地震国といわれ莫大な国家予算を投じて地震予測の研究をしてきたが、地震予知は不可能との見解もある。研究者によっては、防災対策に予算と人的エネルギーを割くべきとの意見もある。



〈東北大震災の教訓〉 


 私は今年の夏、宮古島市教育委員会(川満弘志教育長)の支援を受け被災地を訪ねた。宮城県南三陸町の土を踏み、震災から1年が過ぎようとしているのに瓦礫(がれき)が少し片付いただけの無残な町の姿に呆然とした。防災対策庁舎は鉄骨の骨組みだけが残り、津波の威力と恐ろしさを痛感した。
 地元の方の話では、防災対策庁舎は当初海辺から離れた高台に建設予定であったが議論が二転三転、海から近く海抜の低い今の位置に建設されたとのことであった。それは高台に建設し、いち早く津波を予知し避難ビルとして町民の生命を守る機能を、結果論ではあるが失っていた。
 先人の知恵として、古来から三陸地域は津波に襲われた辛い経験を持つ。小・中学校は高台に建っている校舎に、体験を活かす大事さを感じた。また、20㍍はある杉の木の森が津波による塩害で枯れかかっている姿に、杉の木が自然の防波堤となり多くの人命を救ったことに多くを学んだ。そして、インフラが崩壊した中で水の確保は困難を極め、飲料水以外の生活用水として井戸水が被災者の窮地を救ったことは特筆すべきである。
 宮古島でも井戸を持つ家庭は多い。大切に管理し雨水の利用と同様に災害時に活用すべきである。同時に森林面積3240㌶、15・8%と低い宮古島の森林率を向上させ、人命を守る自然の防波堤形成を目指したい。森は、宮古島の飲料水源である地下水を水源涵養機能を発揮し汚染源から守り、防風林や防潮林として島民の財産を守る。


〈津波を見据えて〉 


 旧平良市時代、私は都市計画に関する委員会に参加していた。その中で災害時や緊急時対策として、宮古空港ターミナルが東側に移転したのを機に、宮古島の中心地域に、主に海抜10㍍前後または海辺近隣や密集した繁華街に住む人々を徐々に個人の判断で移動させる議論がされた。その根拠は県立宮古病院の移転計画である。人は病院など、健康を守る建物の近くに住もうとする心理が働く、との考えに基づく。
 しかし、計画は異なり宮古病院は、海抜14㍍前後、海から数百㍍の旧宮古農林高校グラウンドに建設中である。行政の所管する公共事業は、予算や土地取得などさまざまな課題を解決することに苦慮する。基幹病院は、島民の生命を守る使命があり、東北大震災を教訓に確率的ではあるが、今後は地震による津波の影響を受けにくい地を選定することもひとつの選択肢である。宮古島は津波と無縁ではない。
 1771年には、明和の大津波により2548人の尊い人命を失う悲しい歴史を持つ。そろそろ市民と行政が議論をし、島民の安心・安全な災害に強い島創りを実現することは、今を生きるわれわれの責任である。


 今回で私の私見は最後である。宮古島の命の源である地下水を教育資源として、若い世代の高校生たちと共に守り、次の世代に引き継ぐために研究し学んだ内容を取りまとめた。凡庸な内容で、読者の方々には大変失礼した。