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行雲流水
2012年10月12日(金)23:01

「いじめその弐」(行雲流水)

 子や孫が学校に通っているか、あるいは学校と直接関わりがなくても学校でのいじめの問題を考える意義は大いにあると思う。いじめ問題は今に始まったことではないし、いまさらの話でもなかろうとはいえ後を絶たないいじめ問題を学校や教育委員会に預けっぱなしでは何も解決していないことが分かったからである


▼学校という集団環境は成長過程にある子供たちにとって競争社会そのものだといえる。必然的に些細なことや感情のもつれから仲間内であるいは個人的な関わりで腕力のある子がそうでない子に意地悪をすることが日常化している場合があるのではないか

▼10月6日(土)の琉球新報はオスプレイの記事で埋め尽くされていた。それだけに社会面の「学校119番通報せず」の三段抜きの見出しは特異なもののように目に留まった

▼記事の内容を知るにつけ愕然とした。7針も縫わなければならなかった大けがの生徒を保護者が迎えに来るまでの1時間も放置しておきながら『このときの判断は間違っていない』と傲慢とも取れる校長の発言は教育者としての資質が疑われる

▼校長は、教育現場の長として学校の危機管理をどのように考えているのか。応急処置を施したであろう養護教諭はその子の保護者が迎えに来るまで何をしていたのか疑問が募るばかりである

▼この事件は「いじめ」ではなく「傷害事件」であり、宮古島の学校にも起こり得ることであると思うと、校長の姿勢は看過できない。学校内で子供の命を守ることができなければ地域社会として考える必要があるのではないか。

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