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2013年4月27日(土)22:38

長濱 幸男さん(66歳)/宮古島市史編さん委員

在来馬のルーツさがしに


長濱 幸男さん

長濱 幸男さん

 「在来馬を研究のテーマとしたのは、中学生の頃まで馬を飼っていたことと、大学で育種学の権威であった名古屋大学教授・野澤謙先生との出会いがあった」。花瓶にテッポウユリが生けられた書斎でいつもの馬談義が始まる。書棚は馬関係の資料ファイルと書籍があふれ、壁には馬の陶板と、馬をあしらった紅型の作品。緑豊かな庭に向かうテーブルの上のパソコンは開いたまま。


 「琉球王府のころ大交易時代の基礎を築いたのが琉球の在来馬。中国に300年余、江戸に200年余、献上馬として贈られた。中国冊封使の送迎用、御用馬としても活躍した。17世紀以降は宮古、八重山諸島が馬の産地となっている。中でもハブのいない宮古は国営の牧場が多かった。伊良部の下地島もそうだった。当時は馬に戸籍簿があった。人間より先かもしれないね」と言って笑う。

 琉球馬のルーツは、蒙古馬といわれる。11世紀末から12世紀前半に長崎、奄美経由で沖縄本島に渡来、最初は神聖な乗り物だった。薩摩侵攻後の1635年からは牛馬は課税対象となり、百姓は乗馬禁止で厳しく取り締まられた。1916年、軍馬生産を目的に「馬匹去勢法」が施行され、在来馬の雄はすべて去勢される。国が指定した大型種雄馬を交配に使うことを強要した法律だった。

 沖縄本島は「去勢法」適用地域で在来馬生産が途絶えた。「宮古は猛烈な反対運動で1922年、除外区域になり生産が続けられた。そのため競走馬のヒコーキ号や皇室に献上された右流間号など優秀な馬が生産された。琉球馬が本格的に農業に使われたのは明治以降、大正にかけてだ。サトウキビの圧搾、荷馬車、馬耕などの作業に活躍した。琉球中世期には士族の身分の象徴として、現代では農家の力仕事を助ける家族の一員となった」

 去る3月、沖縄こどもの国主催の「ンマハラセー復活」のシンポジウムでパネラーとなった長濱さん。「琉球馬のルーツを探る」と題し渡来経路と時期、そして果たした役割などを発表した。「馬の歴史を知ることで我々の先祖の暮らしや歴史が見えてくる。今でも地下で多く眠っている遺跡馬の調査を急ぎ、遺伝学的な分析が望まれる」と話し、研究は続く。

 長濱 幸男(ながはま・ゆきお)1946年10月20日生まれ。琉球大学農学部畜産学科卒。73年、旧平良市役所採用。84年、宮古広域市町村圏協議会派遣、全日本トライ大会の事務局長を4年務める。2007年、市教育委員会教育部長を定年退職。宮古島市史編さん委員。のり子さんとの間に1男1女。孫5人。

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