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2013年11月6日(水) 9:00

宮古の事業家・下地米一の生涯②

トラック一台からの出発


◆馬車務者たち


宮古交通の前身である「丸友運輸」の車の前で

宮古交通の前身である「丸友運輸」の車の前で

1956(昭和31)年、宮古島に帰郷した35歳の下地米一は、さっそく個人運送業をはじめる。米一が運搬するのは主にサトウキビ。琉球石油のドラム缶を運ぶこともあった。のちに米一の宮古交通を支えることになる来間勇も、一国一城の主としてトラックを走らせていた。「あのころ、野心にあふれる男たちはみな、運送業に飛び込んだものです」と来間は語る。荷馬車の轍でボコボコの道を、ポンコツのトラックが走った。荷の積み下ろしも自分でやる。整備も改造もやる。「運送業者は馬車引きに毛の生えたようなものだったから、”馬車務者”と見下す者もあったが、本人たちは気にしなかったさ」と、現在は社長として先嶋建設を率いる黒島正夫が振り返る。先嶋建設も、米一の宮古交通とおなじく運送会社から発展し、ともに宮古の業界を牽引した建設会社だ。
米一がはじめたころの個人運送業者たちは、モータープールと呼ばれた駐車場で情報を交換し、仕事を融通しあっていたが、いつしかグループができあがり、グループ間で競いあうようになっていった。米一がリーダーを務めたのが「丸友運輸」である。1959(昭和34)年には、琉球政府の行政指導もあり、丸友運輸は他のグループも吸収して「宮古陸運」へと発展する。


◆宮古交通の誕生


この時期の宮古経済は、農家が生産したサトウキビを製糖会社が砂糖に加工し、その砂糖を沖縄本島に運んでドルを稼ぎ、そのドルで衣食住に必要な物資を本島から買い入れることで成り立っていた。運送業の勝負は、製糖工場にどこまで食い込めるかで決まる。
米一が強引とも言える行動力で大きなチャンスをつかんだのは、宮古陸運創設直後のことであった。それまで沖縄製糖の一社だけだった宮古島の製糖業界に、あらたに宮古製糖が参入し、工場の建設がはじまったのだ。米一は、宮古製糖の社長室を訪ね、北学区の大先輩でもあった真喜屋恵義社長と直に交渉する。設備機材一式の運搬を宮古陸運に任せて欲しいというのがその内容だ。「あれだけの機械を一社で運べるのか」と問う真喜屋に、米一は「大丈夫です。まかせてください」と言い切り、大きくても3トン程度しかないトラックで、何十トンもの資材の運搬を成し遂げてみせた。米一は真喜屋の信頼を得た。 
続く1960(昭和35)年、宮古製糖工場が操業を開始すると、真喜屋は、米一らにサトウキビの運搬をすべてまかせると約束する。経営が軌道に乗った宮古陸運は、1962(昭和37)年には、合名会社「宮古交通」へと移行。社長には41歳の米一が就任し、のちに総合建設会社への成長を支えることになる砂川栄市、砂川恵常、そして狩俣雄三ら仲間たち25人あまりがトラックを現物出資して参加した。
ところがその翌年、宮古島は大干ばつに見舞われ、サトウキビ畑が壊滅する。製糖の原資が全く足りない状況で、被害の軽かった多良間からサトウキビを買いつけるも、焼け石に水であった。はやくも宮古交通は窮地に立たされた。


◆土木建設業進出


米一は、「運送業だけでは食えないよ。土建業をやろうか」と仲間たちに問うた。サトウキビの運搬は12月から3月にかぎられる季節商売で、それ以外の時期に、家族を養えるだけの仕事を確保するのはもともと難しかった。道路や港湾整備用の資材運搬も請け負う宮古交通が、土木建設業そのものに進出するのも自然であった。しかし米一らには、土建業の経験がまったくなかったのだ。不安を感じた者もあったが、難局にあっては退路を断つ選択でリスクを取る米一の性格も、みながよく知っていた。やはり、「やろう!」が米一の決断だった。米一は、宮古交通を建設業に登録し、組織も株式会社へと変更した。このころ、重機車両に詳しい福原敬洋も入社。受注が先で、必要な設備機材の確保は走りながら考えることもあった。”怖いもの知らずで、とにかくやってみる社風”で、前へ前へと進む。
1972(昭和47)年の本土復帰前後には、宮古島にも復興事業景気の予感が漂いはじめる。沖縄本島の琉球生コンが設備を刷新し、古いプラントを解体中との情報を得ると、米一は、「不要になった生コンプラントを買いつけてくれ」と指示を飛ばす。この数年前から宮古交通は、石灰岩を砕く設備を稼働し、コンクリートの材料である砕石を生コン会社に販売していた。近く、大型のインフラ整備事業が増えるに違いない。本土や沖縄本島のゼネコンの下請けで土木工事を行うかたわら、こんどは自分たちで生コンクリートそのものを製造し、直接ゼネコンに売ろうとの計画だ。狩俣や来間らが本島に行き、中古のプラントを解体して運ぶ。福原らが宮古で待ち受け、組み立てなおす。このプラント購入は、沖縄銀行から巨額の融資を受けた先行投資であった。この時、米一は52歳。「度胸があって、先見性もある。何よりも、決断が早い人でした」と来間が当時を振り返る。この投資は当たった。(敬称略)


※馬車務者=バシャムチャ

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