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宮古の事業家・下地米一の生涯
2013年11月24日(日)9:00

宮古の事業家・下地米一の生涯⑤

雨乞い農業からの脱却

◆水をもとめる農民運動


故山中貞則衆議院議員(右)と下地米一

故山中貞則衆議院議員(右)と下地米一

下地米一と地下ダム建設運動との関わりは、平良市(現宮古島市)市長に就任する以前にはじまる。1983(昭和58)年9月、農家の青年たちが中心となって、ダムの早期実現を求める郡民大会を開催。直訴のための代表者を東京へ送り込むべく旅費のカンパを募っていた。この運動を知った米一は自ら電話をし、「君たち若い者の熱意に感動した。頑張ってください」と激励するや、200万円を寄付したのだった。「おかげで、28名の東京直訴団を組織して、関係各省の担当者に大会決議書を手渡すことができました」と西里秀徳は語る。西里は、宮古地域国営土地改良事業推進協議会の事務局長として地下ダム建設のために奔走していた。

地下ダムの建設は、島人の悲願であった。珊瑚礁が隆起してできた宮古島には、川と呼べる川がない。雨は地表を流れることなく地下に吸収され、石灰岩層をとおって海へと流れ出る。地下水流の利用手段がないために、単位面積あたりの生産性が低く、干ばつにも悩まされ続けたのが宮古農業の歴史であった。
地下ダムとは、地中に壁を築いて地下水流をせき止め、地下に水を溜める施設だ。畑へのスプリンクラー散水は、地下ダムに溜めた水を高台のファームポンドと呼ばれる大型貯水槽にいったん汲みあげてから、その水を送水管に流しおろして行う。この方式の有効性は、1978(昭和53)年の農林水産省による実験的な皆福ダムの成功で実証されていた。あとは予算さえ確保できれば、本格的な地下ダムが実現する。農業用水が確保できれば、天候に翻弄されることなく計画的に農業を続けることができる。南国フルーツをはじめとした高収益の換金作物の栽培にも進出できる。農民運動が熱を帯び、東京への直訴団も農水省の役人たちの心を動かした。しかし肝心の大蔵省(現財務省)から予算が下りない。そんな状況のなか、1986(昭和61)年7月、米一市長が誕生したのである。

◆宮古はひとつ

地下ダムの予算要求額は400億円規模。就任直後から米一市長が強く要請するも、「財政が厳しい折、大型プロジェクトの新規採択は認められない」との大蔵省方針は、なかなか突破することができない。次年度大蔵原案では、地下ダムの事業予算は見送りとなった。大蔵省の立場について、西里は、「『沖縄や鹿児島のサトウキビ生産には、すでに年間300億円の補助金を出している。地下ダムでサトウキビの収穫量が増えれば、さらなる予算をつけなければならなくなる』との理不尽なものでした」と振り返る。米一市長は諦めなかった。「サトウキビの生産を増やすためだけではない。ダムの水で他の換金作物をつくるのだ」と復活折衝に臨む。水なし農業からの脱却の重要性が理解されるまで、何度でも要請団を率いて東京の霞ヶ関に向かった。
米一市長の要請がそれまでと違ったのは、「単なる平良市長としてではなく、六市町村会会長として宮古島全体をまとめ、先頭に立たれたことです」と、上野村(現在、宮古島市に合併)村長の砂川功は言う。市町村合併前の宮古島は、平良市・城辺町・伊良部町・下地町・上野村・多良間村に分かれていて、利害の調整が難しい部分もあった。まず米一市長は“宮古は一つ”とのキャッチフレーズの元で、以前から存在した宮古の六市町村会の団結力を強めたのだった。平良市の助役として米一市長を支えた内間武雄も、「予算折衝は、“宮古はひとつ”で全部の市町村の意見を一致させてからでかけた」と語る。島をまとめることができたのは、米一市長が、「相手の立場を理解して事業を進める人、納得してもらって事業を進める人だったからだ」とも内間は言う。
米一市長は、商工会議所の代表も、青年会議所の代表も、農協の代表も、観光協会の代表も、そしてもちろん近隣の市町村の長も引き連れて那覇や東京へ行く。それも、要請書を渡して終わりではない。「各省庁の局長や課長にも直接会って話をし、彼らに思いを伝え、納得してもらうまで何度でも役所に通いました」と、当時の宮古市町村会事務局長の古堅宗和が振り返る。

◆地下ダム着工

予算獲得には、中央政界の力も重要だ。米一市長は、以前から親交のあった初代沖縄開発庁長官の山中貞則に、大蔵省への影響力発揮を求めて東京に通う。米一市長の誕生に尽力した沖縄県知事の西銘順治にも助力を頼みに那覇に通う。そして土壇場の12月29日、大臣折衝で、62年度予算に310億円のダム事業費が組み入れられ、ここに着工が決定した。のちに山中貞則は、策を好まずそのまま突進する米一を評して「猛牛のようだった」と笑ったという。

予算獲得から7年後の1993(平成5)年、砂川に世界初の大規模地下ダムが完成した。最初に上野村安谷原地区の農地ではじまった散水は、全島へと広がっていく。宮古農業の夜明けであった。(敬称略)

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