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ペン遊・ペン楽
2014年4月10日(木)8:55

城塞集落だった狩俣/狩俣 吉正

2014.4.10 ペン遊ペン楽

 狩俣集落の入り口に復元された石造門が建っています。昔、狩俣は高い石垣で囲まれた集落で、住民は東門(アーヌフジャー)と中央門(ンーナフジャー)の二カ所の門から出入りしていました。集落の北側丘?は大部分が神聖森ですが、祖神祭(ウヤーン)の時に神女たちが出入りするための小さな石門(トゥーユウピトゥイ)もあります。

 まさに城塞集落だったわけですが、石垣はアーイヤマ(東森)から東門、そこから購買店本店~中央門(民宿ユクイの南側)~ニスパラヤー~北門(トゥーユウピトゥイ)が範囲だったと伝えられています。現在の県道230号線は大正2-4年に出来た道路ですが、その頃まで石門も石垣も残っていました。

 この石門は年1回ゾーフサギ(門封鎖)が行われ、その日は二カ所の石門が×型で封鎖され、門番を立てて一切の出入りをさせなかったということです。また、結婚して新居を持ちたくても石垣の外側での新築は禁じられていたので、多くの若者たちが否応なしに狩俣から外へ出されました。成川、平良、城辺などに「ルーツをたどると狩俣だ」という方々が意外に多いのは城塞集落時代の政策と関係していると思われます。

 ところで、この石門を造ったのは「クバラパーズ」という人だと伝えられています。この人は12世紀末ごろ、南中国から沖縄本島中部の津堅島へ渡ってきましたが、何らかのトラブルに巻き込まれて妹と二人で島を脱出して宮古島の白川田浜に着いています。その近くで小屋を建て妹と二人で住んでいましたが、ある日、この地を治めていた石原城の思千代按司に見初められて嫁ぐことになります。一人になったクバラパーズは北海岸を北へ歩いて進み、狩俣のアラーン浜から狩俣集落に入り、遠見台東側の森に住むことになります。

 当時の狩俣は南走平家関係の子孫たちが集落を支配していましたが、ほどなく強力な妖術者だったクバラパーズが狩俣の支配者になります。彼は早速、中国や朝鮮の城塞と同じように狩俣集落を石垣で囲み二カ所の門だけから出入りさせ、石垣の外側は食糧生産を確保するための土地として厳しい掟をつくり、家を建てることを禁じたのです。

 14世紀初頭の争乱期に佐多大人を首領とする「与那覇原軍」が宮古島各地の按司たちを武力で次々と滅ぼしています。この与那覇原軍は目黒盛より先に狩俣を攻めています。神歌ニーリで「下地奴、洲鎌奴らが舟で前浜に入り、布や宝玉を奪いに来た。真屋のマーブが己刀・御刀で次々と敵を倒した」と謡っています。また、「根ぬユマサイのタービ」でも東門の上で射手を配置して侵攻を防いだことが謡われています。そのことから、当時の狩俣は城塞集落だけでなく武術の訓練もやっていたことが読み取れます。

 目黒盛豊見親が与那覇原軍に二つの城を取られて漲水浜まで追い詰められ、自害しようとしていた時に荷川取のポー崎から援軍が来て与那覇原軍を全滅させました。この逆転勝利で目黒盛豊見親は宮古島統一を果たしました。この援軍こそ与那覇原軍を撃退した狩俣の武装隊であり、その後の目黒盛善政を支えたのも狩俣だったと思っています。
(沖縄地域政策研究会)

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