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人生雑感
2015年9月30日(水)9:01

【人生雑感】「幸せな人生とは、集める人生ではなく、散らす人生である」

沖縄国際大学名誉教授 福里盛雄

1 人は、誰でも幸せな人生を築きたいと思っています。

 人が幸せであると言えるのは、肉体的に健やかで、精神的に平安であることであります。人が、肉体的に健やかであるためには、①毎日の生活を自然法則に従って営むこと。すなわち、食事、運動、休息を規則正しく営むこと。②体に害になる悪習慣、すなわち、睡眠不足、深酒、タバコを止めること。③歯の健康に注意すること。人が健康であるためには、歯が丈夫であることが、食べ物をかむのに必要条件です。

 しかし、人は、肉体的に健やかであるだけでは、本当の幸せにはなれません。極端なことを言えば、身体の障害があっても幸せな人は、多く見られます。その反対に精神的に満たされていない飢え乾いている人で幸せな人は、一人もいないと思います。
 私たちは、幸せな人生を送るためには、精神的にどのような生き方をすればよいのでしょうか。

2 集める人生から散らす人生へ転換こそが、幸せな人生の土台です。

 集める人生とは、与えられた時間を自分の利益のために使い、財産、能力なども自分の欲望を満たすために使う生活態度であります。すなわち自分中心で他人のことに配慮しない生活態度であります。
 それに対して、散らす人生とは、時間も自分の財産も、能力も、自分と周りの人のために使う生活態度である。他人と分かち合って共に生きる生活態度であると言えます。
 どうして、集める人生より散らす人生が幸せな人生と言えるのでしょうか。
 人は、基本的に他人と共に生きていきたいという欲求を持っています。人が、本当に幸せを実感できるのは、自分の周りのみんなも幸せである時です。
 人は、分かち合いの人生に、その心を満足させます。その分かち合いによって相互の連帯性を感じ、協調性を感じます。
 散らす人生は、愛に満ちた人生です。愛ある人は、受けるより、与えていくことに本当の喜びを実感する人です。
 散らす人生は、愛を実践していく人生ですから、他人の苦しみ、悲しみを共有する感性に満ちています。感性は、感じ、感動し、実践の三要素で構成されています。ですから、散らす人生観の人は、自分の持っているすべて、できることのすべてを出し尽くして、自分のやろうとする目的を実現していきます。その適切な例の一人として、マザーテレサ女史を示すことができます。彼女は、インドで道端で死んでいく哀れな人々のために、最後の死に場所として、暖かい家を建築し、そこで家のない哀れな人々は、最後を閉じていきました。彼女は、すべてを与え尽くして、散らす人生を生きたために、ノーベル賞を受賞しました。その他にも、散らす人生を歩んだ人は多くいます。彼らが歩んだ人生観は、共通性を持っています。その人生観とは、「人は、裸で生まれてきて、裸で死んでいく」という聖書の御言葉を実践したという点ではないかと考えます。
 私たちも、自分の欲望を満足させるために、自分に与えられた特質を利用して集めるのではなく、周りの人々の幸せのために、自分の特質を利用し、集めたすべてのものを散らしていくための人生を歩みたいものです。豊かに散らすためには、まず、豊かに集めるために一生懸命にならなければなりません。何もない者は、何も他人のために散らすものはないのです。集めることは、散らすためであることを忘れないことが重要です。

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