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私見公論
2016年5月27日(金)9:01

【私見公論】熊本とサトウキビ/仲間明典

 梅雨に入った。テレビで地震情報が流れない日はない。

 先日、今期のサトウキビの生産量が公表された。生産量は34万5701㌧、金額にして75億4700万円である。

 縁あって去年、熊本の八代に行く機会があった。足を延ばして友人と水俣まで行ったが、行く前に谷川健一の「甦る海上の道・日本と琉球」を読んだ。谷川が水俣出身という理由だけであったが、驚いた。まず、八代周辺の地名である。伊佐、佐敷、小浜、西原、美里、琉球と無縁でないのは容易に洞察できるが、さらなる驚愕(きょうがく)が見つかった。

 第5章相良氏と名和氏・南朝残党の道の相良氏の貿易の項である。原文のまま記すが「八代市史に紹介されている相良文書の中に天文11年(1542年)八代城主の相良義滋が琉球国へ交易船を遣わし、その返礼として砂糖150斤を贈られる」とある。その時代は第二尚氏、尚真王の子、尚清王の時代である。

 しかも送ったのが国王ではなく、日本から国王の顧問として携わった僧侶「全叢」とある。

 確か、琉球にサトウキビを普及させたのは儀間真常で1600年の前半(1623年)、宮古では人頭税の城間正安と記憶しているが、さらに進めると第一尚氏の最後の王、尚徳のとき(1461年)朝鮮国王に普須古が献上した「天竺酒」(泡盛と思うが)の中味が砂糖であったこと。また、比嘉春潮は尚徳王の前の尚金福のとき、豊見城間切の長嶺按司が明国南京から砂糖の製法を学び私服を肥やして八重山に流刑されている。

 サトウキビや地名にしても琉球と熊本は歴史的に深い関わりがあったことがうかがえる。

 宮古に関しては、初代郡島知事の西原雅一が熊本医専で、西銘元知事も熊本師範だったので無縁ではない、と思う。

 何にしても、天災は忘れたころにやってくる。宮古では1600年の間に3回大きな地震と津波があったようだが、明和の大津波から300年余。

 何気ない日常、身近なサトウキビ、宮古農業の基幹として生活を支えているサトウキビだが、歴史の変遷と広がりは深く、知らないことばかりである。

 そのサトウキビを起点に、地震の熊本にさらに歩み寄ると、興味深いのがさらに続く。

 相良氏より先に八代に城を構えたのは名和氏である。

 名和氏初代の名和長年が後醍醐天皇に忠誠を尽くしたとして、その子義高は肥後八代の荘の地頭頭を授かり、さらにその子顕興は1358年八代に赴き、下益城(現在の益城町)八代、芦北の三郡をまとめ、九州南朝を作り上げる。

 その拠点が花岡城であるが、花岡城とは佐敷城のことである。偶然とは思えない。

 ところで池間島のオハルズ神社(大主神社)に祀られている神は「ウラセリクタメナウ」であるが彼は三重県、熊野から宮古に入った僧である。1298年に渡来と池間島史誌には記されているが、その頃は室町幕府の衰退の時期で南北朝の胎動が起こり始めた時期である。

 ここからは仮説だが、幕府は武士という兵隊を持っている。朝廷は武士の代わりに坊主を持ったのではないか。つまり、寺を囲うことで朝廷は幕府に対抗しようとした。そこで洗脳と情報収集のため全国に坊主を散らした。南朝は熊野、ここでも熊本との接点が見つかった。

 仲間 明典(なかま・あきのり)1953年生まれ。宮古島市伊良部出身。琉球大学理工学部化学中退。元伊良部町役場企画室長。元宮古島市市議会議員。宮古島市伊良部地域おこし研究所所長。元沖縄県過疎計画作成委員。元沖縄県芸術祭運営委員。元沖縄県地域興しアドバイザー事業委員。

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