2017年9月30日(土) 9:01

【美ぎスマ】歴史にロマン秘める/城辺地区新城集落

 新城集落北の海浜砂丘にあるアラフ遺跡には2900~1900年前(紀元後80年)まで約1000年間、シャコ貝の貝殻で作った斧などを使う人々が住んでいた。同所の人々は移住先が分からないまま、謎を残してどこかに去って行った。新城海岸上方(大牧)の小高い嶺には美貌で歌の上手な女性主長「プナイ按司」が住み、集落を形成していたと伝えられる。同集落が新城の発祥という。新城は周りに広大な畑が広がる農業の盛んな集落。2016~2017年期のサトウキビ生産高は7300㌧と城辺の24部落中上位。和牛飼育農家は35戸で母牛211頭(2016年末現在)が飼われている。新城は優秀な人材を多く輩出した「ピトゥンマリスマ」としても知られている。


アラフ遺跡の人々いずこへ/1900年前まで貝斧使い生活


1900年前まで人が住んでいたアラフ遺跡のある新城海岸

1900年前まで人が住んでいたアラフ遺跡のある新城海岸

 アラフ遺跡の発掘調査は、沖縄国際大の江上幹幸(ともこ)教授らが行った。シャコ貝の殻を割ったり、磨いたりして斧やノミ状のものなどを作り生活用具にしていた。貝製品では丸木船も作り外海に出ていたとみられている。2005年の調査では、八重山に産出し宮古にはない黒色千枚岩の石材が出土した。同石材は八重山との行き来を裏付ける発見となった。


アラフ遺跡から出土した貝斧(右)、1カ所に収納した形で見つかった貝斧(左)=宮古島市総合博物館で常時展示

アラフ遺跡から出土した貝斧(右)、1カ所に収納した形で見つかった貝斧(左)=宮古島市総合博物館で常時展示

 数多く出た焼石集石遺構は「調理施設の機能を果たしていた」と推測。焼石調理はポリネシア(太平洋中部)などで行われているとし、アラフと南方文化を結び付けた。本土では料理などに縄文や弥生式土器が使われていたころ。アラフ遺跡には土器がないため、そのころ(2900~1900年前)を「無土器期」と時代区分している。食べ物はサザエや魚類、現在は宮古にいないイノシシを多く食べていた。


 アラフ遺跡の人たちが去ってから1000年ぐらい経って、宮古の各地では城を構え領地拡大を争う豪族たちが現れた(グスク時代=12~15、16世紀)。新城郷友会の「創立20周年記念誌」によれば「新城北海岸の小高い丘陵では(グスク時代に)女按司(ブナイ按司)が住み牛馬500~600頭を放牧しアラフ田に米を作り領土を広げ集落を統治していた」。この女按司の一族農民が新城の始まりになったという。


 戦乱の世は目黒盛が平定し豊見親の時代になったがその後宮古は、琉球王国の属領になり1637年には農民を苦しめた「人頭税」が始まった。年貢(人頭税)を徴収する村番所のある行政集落としての新城は、1727~1739年ごろに創立したとみられている。当時、砂川や友利、宮国、保良の人々などが移り住んだと伝えられる。移住した人々は広い土地を求めて自主的に新城に来たのか、役人が命令したのかは分かっていない。友利や宮国、保良などにある「トムスガーミヤー」「バキギャー」「ウヤキヤー」「ナカヤー」「ナカスミヤー」「ンカイ」などの屋号が、これらの村からの移住を物語っているという。


 新城は先人たちの努力で開拓が進み集落南の「ヤマズ」や西の「野加那」、北の大牧にはサトウキビや牧草が青々と育つ畑が広がっている。


 参考文献‥「平良在住新城郷友会 創立20周年記念誌」「アラフ遺跡調査研究Ⅰ」(編集・同遺跡発掘調査団)「みやこの歴史 宮古島市史第一巻通史編」など。

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    27,602 人
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    世帯数 27,848 軒
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    604 人
    523 人
    世帯数 516 軒
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