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【特集】新年号
2018年1月1日(月)8:59

水中メガネ 池間に伝わる/糸満のウミンチュ考案

潜水漁業 飛躍的に発展/漁師が活用し生活豊かに


奥平洋美さん(57)は亡父の形見として水中メガネを大事に守っている=2017年、池間島

奥平洋美さん(57)は亡父の形見として水中メガネを大事に守っている=2017年、池間島

 1884(明治17)年、沖縄本島の糸満村(現・糸満市)の海人、玉城保太郞(たまぐすく・やすたろう)が沖縄で初めて水中メガネ(方言名ミーカガン)を考案した。別名糸満メガネとも呼ばれた。海岸に自生するモンパノキ(ムラサキ科)を用い、丸く削った部分をくり抜いて枠をつくり、ガラスをはめた両眼式のメガネ。二つの枠のふちは太い糸で結んだ。水中メガネの登場で潜水漁獲技術が向上し、特に沖縄の潜水漁業は飛躍的に発展した。(撮影・伊良波彌記者)

 

 ■池間島、粟5俵で交換、水中メガネ1個
 

 『沖縄池間島民俗誌』(野口武徳、1952年)には「明治21(1888)年頃、糸満の漁夫がやってきて高瀬貝を取るときに用いていたものを、Mという池間の人が粟(4斗俵)5俵と交換し、それを真似て沢山作り、非常にもうけた」と書かれている。
 池間島では、水中メガネ1個あれば家一軒が建ったという言い伝えがある。

 ■『宮古郡八重山郡漁業調査書』1913(大正2)年ごろ作成
 

 宮古島市立図書館に複写の『宮古郡八重山郡漁業調査書』が所蔵されている。手書きの貴重な記録だが、あまり活用されていない。作成年月日は未詳。
 同調査書は「沖縄県立水産学校」の銘の入った罫紙(けいし)に書き込まれている。同校の前身は糸満村(現・糸満市)の糸満小学校内に設立されていた糸満村立水産補修学校。1910(明治43)年に「沖縄県立水産学校」に改称された。
 同調査書は、水産行政上の目的で作成されたと思われる。
 内容から13(大正2)年時点の作成か、あるいは直後の年とも考えられる。佐良浜漁師と池間漁師の裸潜りに関する記事がみえ、左に一部を引用する。
 

 ■佐良浜・池間漁師、裸潜りで30㍍ 

 佐良浜漁師については次のように記されている。
 「漁業の方法は裸潜にして、能(よ)く水深十尋以上に達して介類を採収(採取)し、又十五尋乃至(ないし)二十尋に達するものあり。」
 池間漁師については次のように書かれている。
 「池間島漁業者の得意とする所は裸潜漁業にして、能く二十尋内外の深底にも潜水し、採介を為すか如きは殆ど他に比類を見ざる所にして彼の糸満人と雖(いえど)も遠く及ばざるなり。」
 ※裸潜りでは水中メガネをかけていた。1尋(ひろ)は、両手を広げた時の、指先から指先までの長さ。明治時代の水深を表す場合の1尋は一般的な認識で1・5㍍とされ、20尋は30㍍と算出した。
 

 ■明治末期の佐良浜漁師、台湾へ「石花菜」採集へ

 同調査書の伊良部村の章には「出稼ぎ漁業の状況」が書き込まれている。佐良浜の出稼期間「3~7月」、漁業の種類「石花採収(採集)」、出稼先「台湾」、出稼船数「四隻乃至五隻」、同人員「二五人」、1隻の乗組員数「五人」。
 「石花」は、石花菜(せっかさい)の略語である。深海の岩に生える紅藻類テングサ科の海藻の総称。産地は台湾基隆の社寮島(しゃりょうとう、現・和平島)の海域だった。石花菜は10~100㍍の水深に自生していた。
 石花菜は、日本ではトコロテンや寒天の原料として人気が高く、寒天草、台湾草、心太草とも呼ばれていた。
 宮古島から台湾までの距離は約380㌔。この距離は宮古・沖縄本島(那覇市)間との距離約290㌔より約90㌔も長い。

 ■渡航要因、日本の台湾統治 
 

 1895(明治28)年以後、沖縄漁民は水中メガネを大事に抱えて台湾へ渡航し「石花菜」を採集した。高値で売られたことから多くの沖縄県人が進出した。
 自由に渡航ができた要因は、日本が同年に日清戦争で勝利し、下関条約で台湾は日本に割譲されたからであった。台湾統治は1945(昭和20)年まで続いた。
 明治期の宮古・台湾関係の漁業史はまだ明らかにされていない。

 ■伝統の水中めがね、絶滅の危機

 宮古の多くの漁民は明治中期以後、水中メガネを活用した。資源が豊かなサンゴ礁に潜り、タカセガイやサザエ、ヤコウガイ、シャコガイなど採集し、生活を豊かにした。
 池間島や佐良浜などから伝統の水中メガネが減少するのは、沖縄が本土復帰した1972(昭和47)年以後である。沖縄本島から商人らが訪れ、観光土産品で販売する目的で水中メガネを買い集めた。現在は、絶滅の危機にある。

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