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美ぎスマ
2018年6月30日(土)8:54

【美ぎスマ】史跡、伝統文化、水豊か/城辺地区・比嘉集落

 比嘉は先祖の思いを今に伝える史跡や伝統文化、水の豊かな集落。14世紀中ごろ、集落北の高腰台地では湧泉(按司の泉、ユカスタガー)を核にグスク(高腰城)が形成され、周辺には農耕や牧畜が栄えた。天然の良港浦底漁港とは「目と鼻の先」。1985年から3年間行った高腰城跡の発掘調査では土器や中国製の陶磁器、古銭などが出土し、海外と交易していたことも分かった。住民は史跡の保存活用や地域活性化を目的に高腰城の早期復元などを要望している。行政区としての比嘉は1727~43年の間にスタヌスマ(下の島)で村建てされ、1862年ヴァービヌスマ(上の島)に移転した。近年は集落東の大川(ウプカー)や西の野加那泉の水を生活・農業用水に使い発展してきた。現在は地下ダムの水が入りサトウキビは干ばつを知らず青々と育っている。比嘉では瑞慶覧朝牛元城辺村長(第7代)、平良恵茂元城辺町長(第2、3代)、前里充宏同議会議長(1954~)、前里一雄同議長(1974~)などが誕生し地域発展に尽くした。5月末現在の人口は288人(男性167人、女性121人)、世帯数は140戸。

住民「高腰城復元」を要望/地域活性化めざし


砂川雅一郎自治会長

砂川雅一郎自治会長

 高腰城復元は旧城辺町の「ふるさと文化村」整備計画に盛り込まれ、5市町村が合併した新市・宮古島市に引き継いだ。

 「ふるさと文化村基本計画」の策定から約20年、2005年の合併から10年近く計画推進に表立った動きは見られなかった。
 計画に再び動きが出たのは砂川雅一郎さん(70)が比嘉自治会長に就任した翌年の2015年。同年11月には高腰城跡に関する要請団(団長・砂川雅一郎比嘉自治会長)が下地敏彦市長や宮國博市教育長を訪ね「比嘉自治会は高腰城の復元に盛り上がっている」と早期実現を要請した。

 16年6月から7月にかけては高腰城復元とふるさと文化村の早期実現などについて署名活動を行

高腰城跡に設置されている高腰城復元予想図

高腰城跡に設置されている高腰城復元予想図

い、2125人分の署名簿を市長に提出した。署名用紙では「合併10年何の事業もない城辺町。これだけでも皆の力で実現させよう」などと呼び掛けた。要請書には比嘉自治会をはじめ商工会議所や観光協会など10団体が名を連ねた。

 2017年12月定例会で川満広紀前生涯学習部長は、平良和彦議員の質問に応え「2024年度から30年度にかけて学術的調査や保存目的の調査を行う」と述べ、6年後の芽だしを明らかにした。

 砂川会長が要請に動き出したのは「住民一丸となって地域を活性化させるものは何か」と考えたのがきっかけだったという。

 砂川会長の話によれば、高腰按司は14世紀中ごろ与那覇原軍に敗れ領民は離散したが、一部は大川の近くの竹中原に移り住み1500年代初めには金志川豊見親配下の農民も合流し、大川の水を利用して「金志川田」を開発した。

 当時の人々が、大川を「桶川(ピスガー)」と呼んでいたことが「比嘉」の名前の由来になったという。金志川豊見親は仲屋勢頭の謀略によって無念の最後を遂げ、竹中原も衰退した。砂川会長は「元比嘉(下の島)の人々の多くは平良西里から移住したとされるが、竹中原の人々の一部も移ったのでは」と推測する。

 砂川会長は「字指定 宮古島文化遺産」と題する冊子(カラー写真と説明文で比嘉の名所旧跡を紹介)を発行し、名所旧跡に銘板を設置した。「高腰按司御嶽」の銘板には「高腰按司のお墓。また、高腰按司の兄弟で農耕地を治めたボーヌ主の管理拠点。牛や馬の繁殖・健康を願い、人と家畜の共栄を願う」と書いた。砂川会長は「高腰按司は農耕牧畜を奨励・指導したため、家畜の神様として崇められている」と話した。

 稲村賢敷によると、高腰按司は与那覇勢頭豊見親が中山に入貢した1390年以前に島外から渡来した人で、鉄製農具や農耕牧畜文化を広めた。市教育委員会は「高腰城跡は琉球王国の勢力が及ぶまでの宮古島の様子を知る上でも重要な遺跡」と位置付けている。

 高腰城跡は1991年8月、県指定史跡に指定された。

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