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美ぎスマ
2018年11月30日(金)8:54

【美ぎスマ】地元供給野菜の伝統産地/平良地区添道集落

 添道の野菜農家の朝は早い。薄暗いうちから葉野菜などを収穫し、20年ほど前までは平良市街地の公設市場を中心に出荷していた。車の周りはわれ先にと買い求める宮古各地の商店主や仲買人らでごった返した。地元の食卓を賄う添道ブランド(野菜の伝統産地)を切り開いたのが砂川玄仁さん(1933~2015年)。池村春栄さん(89)らが後に続き、50年作り続けてきた。近年は高齢化などに伴い野菜農家は減ったが、今でも添道産の知名度は高い。近年はマイヌンミ(東小学校裏の学びの森)の麓に住宅が造られ世帯数が増えた。10月末現在の人口は499人(男性270人、女性229人)。世帯数は236戸。

砂川玄仁さんが切り開く/池村さん50年作る


葉野菜の収穫をする池村さん

葉野菜の収穫をする池村さん

添道の野菜づくりを切り開いた故砂川玄仁さん

添道の野菜づくりを切り開いた故砂川玄仁さん

 砂川玄仁さんは1955年美代さんと結婚、中添道の砂川家に婿入りし、野菜栽培を本格的に始めた。「野菜は短期間で換金できる(葉野菜は播種から2週間)」。少ない畑の有効利用(土地生産性向上)を考えてのことだった(美代さんの話)。野菜栽培の専門知識と技術は琉球農業試験場で研修(1953年)を受けて学び、これが経営を支える力になった。

 最初は葉野菜を栽培した。市場のある平良市街地までの距離は1・5~2㌔。朝の薄暗いうちから収穫し、リヤカーや荷馬車で運んだ。野菜を抱きかかえた妻美代さんをオートバイに乗せ、ピストン輸送した時期もあった。

 1962年には軽自動車を買った。美代さんも運転免許を取り、市場だけでなく平良や地方の得意先まで届けた。「皆さんのおかげで、子供6人を大学まで育てることができた」と感謝した。

 玄仁さんはピーマンやカリフラワー、レタスなどの西洋野菜を宮古で初めて栽培した。耕運機も添道で初めて導入。「かにがまやー(玄仁さんの生家)の沿革誌」を編集したおいの砂川光弘さん(元県宮古農林水産振興センター調整監)は「叔父は先見の明に富む人だった」と同誌で述べている。

 池村春栄さんの朝は早い。6時半ごろまでにはハウスに行き葉野菜を収穫する。種類はナッパ、ダイコン葉、カラシナなど。ピーマンもある。注文があれば20束ぐらい収穫し届けに行く。「小遣い稼ぎになるよ」と笑顔で話した。

 栽培の最盛期のころは妻テルさんと2人で200束収穫したこともあった。「市場に持っていくと引っ張りだこだった。葉野菜1束の卸値は昔も今も80円と変わらない。添道の葉野菜は宮古の店で売る野菜の8割ぐらいを占めていたのでは」と話した。野菜栽培を柱に生計を立て、子供5人を育てた。

 砂川玄仁さんが婿入りした砂川家(現在は旧北市場通り沿い)と池村家は隣同士だった。親交があり玄仁さんの頑張る姿を見て「もしかしたらもうかるのでは」と思ったのが野菜作りのきっかけだった。

 土づくりは豚の糞を利用するなどして徹底。野菜は葉野菜を中心にキュウリやダイコン、ナンコウ、トーガンなどいろいろ作った。「昔はワインチャーという大きなダイコンがあった。正月のころ荷馬車に積み、平良の街で売り歩いた。妻を後ろに乗せてね」。妻と一緒に歩んだこのころの姿が強く印象に残るという。

 野菜農家5~6人で「添道野菜クラブ」を作り、農業改良普及所の指導を受けて質量ともに安定した産地を形成した。月に1回「農休日」を設けて情報を交換し酒も酌み交わした。

 収穫から間もなく店頭に並ぶ添道の野菜は新鮮さに定評がある。現在も4~5軒の農家が作り、伝統を守っている。

添道の沿革

 添道は平良市街地から北東約2㌔に位置する。東からマイフグ、タナバリ、東添道、中添道、アダンダキ、西添道の6班で構成する。平良、下地、城辺などから寄り添って集落が形成され道(人生)を共にしたことから「添道」の名が付いたという。
 昔からパナムズフ●(●=スに○)(穀物の総称)のよくできる地域で、農業生産力の高い地域として評価されてきた。サトウキビ畑が100町歩におよび、野菜栽培も盛んで野菜供給産地としての役割を担ってきた。(かにがまやーの沿革誌=砂川光弘・ヒメ子編集発行=より)

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