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私見公論
2019年7月12日(金)8:54

【私見公論】ぴんな医者の厚かましいお願い/竹井 太

 私見公論の執筆にお招きいただき、たんでぃがあたんでぃ。これから4回、皆さんとこの紙面でお目にかかれることを楽しみにしております。

 今回は、少し自己紹介もかねて、宮古島での活動のプロローグをお伝えします。

 私の発生地は大阪、主な生育地は神奈川県です。仕事は医業を生業としております。趣味は、必要なものを必要なところに設えること。これは、入島当時、足りないものを足りたこととして医療を受け、また、患者さんの遠慮の上に成り立つ医療を宮古島で体験したためです。座右の銘は、生きて活きて逝きることです。これは、個々が生まれ、その生まれた命(生命)を活かし人生を楽しみ、十分に活かされた命(生活)はすっきりと未練なくその日を迎える(逝きる)ことの素晴らしさを、宮古島の人たちから教わったからです。

 来島前は、東海大学で20年間、いわゆる大学人として高度先進医療の中で、研究、診療、教育に明け暮れておりました。しかし、ある日、徹夜の手術を終え医局に戻り、そこで見た雑誌の甘い囁き「コバルトブルーの海、宮古島、脳神経外科医求む、新設病院」に心を動かされ、宮古島に来ることを決め、アメリカ同時多発テロがあった2001年に移住し、外来種竹井の誕生となりました。

 実はこの外来種、今振り返って見るとなかなかの無鉄砲者(もの)で、当時、宮古島には一度も訪ねたこともなく、地域医療の体験も乏しく島の事情を全く理解していないどこの馬の骨かも分からない新参者が、島民の半数を超えた方々から地域医療の重要な役割を期待され新設された徳洲会病院の院長として移住してきたわけです。にもかかわらず、こんな私にでも「先生はいつ帰るの?」と質問されながらも、「あんたがわかるさあ」と温かく受け入れていただける日を過ごした時、かつて経験のない居心地の良い「医者が癒やされる診療」を体験させていただきました。さてさて、こんな経験ができるならと、ますます宮古島での医療に取り憑かれていくことになり、念ずれば通ずの信念のもと仕事を進めましたが、2年目で血圧が200を超えあえなくダウン、動けなくなりました。なぜか? それは気合いの入れ過ぎで、自己流で宮古島に高度先進医療を何ら加工することなく、その地を知らずして移入を進めたためでした(教訓:針穴にはタコ糸は通らない)。大学医療で自惚れた竹井の慢心と宮古島の地域医療に対する無知との遭遇の結果でした。しかし、この手痛い遭遇のおかげで、自分の医療の身の丈を知り、宮古島で行う地域独特の医療の在り方を見つめ直すことができました。大学では体験できなかった地域医療をうむやす風に、ブレることなく今日まで続けられていることに感謝しています。目標は、外来種竹井の心を釘づけにした素晴らしい宮古島で、皆さんがいつまでも健康で生きて活きて逝き切れるようになっていただけるように「目の高さを同じにした喜怒哀楽を共にできる肩のこらない敷居の低い医療」の実現です。

 このモットーで宮古が一番を進め続けるために、①透明人間になりたい(地に馴染み、景色に溶け込み、違和感のない宮古人となり同じ目線で事をしたい)、②変電変圧所でありたい(島内外にある地域格差をうまく癒合させ、医療であれば離島がゆえに叶えられない医療を、叶えられる医療に変えていきたい)、③難儀を糧に島の健康を未来につなぐため、皆さんがそんなことはできないと勝手に思い込んでいる心のブレーキをはずしてもらいたい、などのぴんな医者の世迷言にお付き合いいただけると至上の喜びです。長くなりました。まずはご挨拶まで。すでいがふう。

 竹井 太(たけい・ふとし)1955年生まれ。大阪出身。東海大学卒業後ニューヨーク留学。医学博士、脳神経外科専門医、認知症予防専門医、禁煙専門指導医、在宅医療認定医。2001年宮古島徳洲会病院初代院長、県立宮古病院勤務を経て、06年うむやすみゃあす・ん診療所開設。13年より宮古島で毎年全国学会を開催、16年沖縄県認知症疾患医療センター受託。Rhマイナスの会、福島震災者支援(笑顔カレンダー)などの地域活動支援を行なっている。現在、宮古地区医師会長。

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