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2019年11月22日(金) 8:54

【私見公論】撚(よ)りつないでいくということ/新田由佳

 現在、市総合博物館では、開館30周年記念の特別展示「宮古の宝 三十選展」を開催している。2万3千点余の収蔵資料から、30周年にちなみ30のテーマで選んだ名品を紹介するものだが、その中に、近現代産業としての「宮古上布」を支えた下地恵康、池間方俊、友利玄純の3人の作品がある。


 琉球王府時代、人頭税という重税のもと、男性は粟などの穀物を、女性は織物を貢納したが、1903(明治36)年に人頭税が廃止されると、宮古上布を取り巻く環境は大きく変わった。260年以上にわたり、貢納布として琉球王府の厳しい検査基準をクリアしてきた宮古上布は、自由生産・販売となると、その高度な技術ゆえに最高の夏衣として全国に知られるようになった。そして、高機や絵図台、締機などの新しい技術の導入による生産効率上の「カイゼン」もあって、昭和初期ごろまでは、織り手の女性が2、3人いれば家が建つと言われるほどの隆盛を極めた。


 しかし、戦後は生活の欧米化などから和装離れが急速に進み、宮古上布の売り上げも振るわなくなった。当然ながら原料である苧麻糸の需要も激減し、昭和40年代には「ブーンミ」、すなわち苧麻糸手績(う)みの技術者の多くが転職を余儀なくされていった。その結果、織り手が織ろうにも苧麻糸の入手が難しくなり、生産量はさらに落ち込むという悪循環に陥っていった。宮古上布が1975(昭和50)年には通産大臣(当時)指定の伝統的工芸品に、1978(昭和53)年には国指定重要無形文化財となったのは、生産量が激減する中にあって、すぐれた技術を絶やしてはならないという動きであった。


 宮古上布の工程は複雑で、織りだけでも一反につき3~4カ月、原料となる苧麻の栽培から始まって、織りあがった布を美しく仕上げる洗濯砧打ちなどの工程まで含めると、半年から一年を要する。原料の苧麻はイラクサ科の多年草で「カラムシ」ともいい、年に数回収穫できるが、5~6月ごろに収穫される「うりずんブー」が最も良質とされる。茎の皮をミミガイ(トコブシ)の殻でしごいて繊維をとり、乾燥させてから細く裂き、これを撚りつないで糸を績むのが「ブーンミ」だ。


 かつては宮古の女性の多くが織りや糸績みに従事していて、畑仕事の合間や夜、誰かの家に集まるなどして寄り合っておしゃべりしながら、歌を歌いながら糸績みするのが楽しみでもあった。昨年急逝された宮古苧麻績み(ブーンミ)保存会前会長の下地ヨシさんにお話をうかがったのは、亡くなる3カ月ほど前のうりずんのころだった。子どものころから母を手伝って糸績みをし、績んだ糸は上野の新里から西仲宗根のあたりまで母と歩いて売りに行ったという。それも裸足で、である。「その頃は裸足で農作業するのがあたり前だったから、裸足で平良まで歩いても少しも痛いと思わなかったよ」と話してくださった笑顔が思い出される。今なら車で20分ほどの距離だが、ヨシさんが子どもだった時代は、お金を払って馬車に乗るか自分の足で歩くしかなかった。厳しい販売ルートではあるが、近所の女性たちが集まって楽しく績んだ糸を、織り手のところまで売りに行くと結構な現金収入となり、次のモチベーションにつながる。こうして宮古上布は支えられてきたのだと思う。


 先ごろ、苧麻糸手績みの源河サダさんと砧打ちの砂川猛さんが沖縄県文化功労者に選ばれた。宮古上布の最初と仕上げの工程を担うお二方の功績が称えられたことは、宮古上布に携わる方々の大きな励みになったことだろう。


 実は私も「宮古苧麻績み保存会」の3年間の研修を受けた績み手の卵である。仲間と集まって糸績みをする楽しさは今も昔も変わらないようで、他愛もないおしゃべりをしながら糸績みする時間は心休まるひとときである。この一年半ほど参加できていないが、私の席はまだあるだろうか。(宮古島市総合博物館学芸係)