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宮古の事業家・下地米一の生涯
2013年11月10日(日)9:10

宮古の事業家・下地米一の生涯③

総合建設会社への成長

◆乗瀬橋の施工


昭和42年 米一45歳

昭和42年 米一45歳

下地米一が設立した運送会社「宮古交通」は、1967(昭和42)年には建設会社へと発展する。そして1972(昭和47)年の本土復帰と前後して、いくつかの重要な階段を登ることになる。その一つが下地島と伊良部島をつなぐ乗瀬橋の入札であった。



この橋の工事には、工場で製造された鉄筋コンクリート(PC)部材を現場に運んで組み立てる工法が指定されていた。PC部材の製造も現場での組み立ても特殊な技術が必要なため、当時の常識として、技術的にも規模としても本土や沖縄本島のゼネコンが施工する公共事業であった。しかし、この時は予算が折りあわずゼネコンが受注を見送ったのだ。好機とみた米一は、同じ宮古島の共和産業や先嶋建設と共同で、赤字覚悟の落札に打ってでる。だが、米一らは橋をかけるのも初めてなら、PC工法も初めて、当然PC業者と契約したこともなかった。予想していたとおり、PC業者が「経験のない宮古の業者は、相手にできない」と契約に難色を示す。


「もともと米一社長は、技術的な挑戦が好きでしたが、このときは相当苦労していました」と、重機車両を担当していた福原敬洋が語る。だが、米一と社員らは進むしかない。米一は本土から専門家を招いてPC部材を現場でつなぐ技術を一から学び、業者を納得させる。そして、福原らが当時は珍しい60トンのクレーンで部材を設置していったのだ。この工事は、宮古の橋の建設を、宮古の建設業者が、島外のゼネコンの下請けではなく元請けとして施工した最初のケースとなった。先嶋建設社長の黒島正夫は、当時を振り返りながら「あれは痛快だったさぁ」と笑う。この成功で、宮古交通は技術力に自信をつけ、世間にも実力建設会社として認知された。


◆ジワーっと待て

社員たちにとっても、挑戦の日々だった。


しかも米一は、こと仕事に関しては、自分に対しても他人に対しても厳しかった。それでも社員たちがついて行ったのは、米一が会社を家族ととらえ、経営者の自分は社員たちの父親であると考えていたからだという。こんなエピソードが語り継がれている。


この当時、ある社員が遅刻を繰り返すようになった。米一が理由を問いただしても、言い訳をよしとしない時代のことでもあり要領を得ない。米一は怒った。それでも理由を言わない社員に、米一は、「もう会社に来なくていい」とクビを宣言する。だが、しばらくして遅刻の理由が他の社員から伝わる。母親が病気だというのである。おどろき反省した米一は、社員の自宅に急ぎ、自分の車で母親を病院に連れて行ったという。米一は、自分の間違いを率直に認める人情家でもあったのだ。


経営者しての米一は、「ジワーっと待て」とよく口にした。好機がきたら、大胆に決断し一気に前へ進まなければならない。しかし、その時がやって来るまでは、粘り腰で待つことが肝要である。時流を緻密に読みながら待つことの重要性を、米一はこの「ジワーっと待て」の一言に込めていたという。


◆本社の那覇移転


1970年代は、宮古交通にとって、まさに一気に拡大するべきときであった。生コンクリート製造に手を広げると、次に乗瀬橋の工事を落札し、技術的な躍進を遂げる。さらに、他社が行かない多良間・西表・波照間・与那国と次々に離島へも進出していった。これら離島では、パワーシャベルやブルドーザーなどの重機はもとより、浚渫船や県内初のFD(フローティング・ドック)船を投入し、農地や道路、そして港湾や空港の整備を担った。


こうした拡大のなかで、宮古交通は、工事全般を砂川栄市が差配し、海上土木部門を砂川恵常が率い、友利哲雄が陸上土木部門を、狩俣雄三がコンクリート部門、友利博利が建築部門、福原敬洋が重機車両部門、狩俣昌克が船舶部門、そして川満重夫が八重山営業所といった具合に、各部門の体制が整い、現在につながる総合建設会社としての骨格を形成していった。経営基盤を安定させて自信をつけた宮古交通は、1983(昭和58)年、本社を沖縄本島の那覇に移転する。那覇進出の初期には、「タクシー会社さんですか?」と間違われることもあったという宮古交通は、1988(昭和63)年に大米建設と社名を変更するころには、年商100億円を超える県内有数の総合建設会社に発展を遂げていた。


同じころ、米一のもう一つの会社も急成長している。下地宏と嵩原英輔とともに経営していた「南西海運」である。1977(昭和52)年、米一は友人らの反対を押し切って、経営危機に陥った三島海運を買収。その後、南西海運と名を変え、老朽船を次々と大型の新造船に切り替えながら経営を拡大していったのだ。現在、南西海運は、宮古・石垣・中国の厦門・台湾の間で生活物資の輸送に従事している。若き日の米一には、海運業経営の夢を目前で逃した苦い経験があった。晩年、三島海運の買収を振り返った米一は、「江戸の敵を長崎で討つ気持ちだった」と語ったという。(敬称略)

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