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美ぎスマ
2017年1月28日(土)9:01

【美ぎスマ】開拓魂息づく里/平良地区・高野

石碑に「団結」「闘魂」「開拓誠心」と刻む


「団結」「闘魂」「開拓誠心」などの文字が刻まれている石碑

「団結」「闘魂」「開拓誠心」などの文字が刻まれている石碑

 高野集落は1961(昭和36)年、大神島の17戸、水納島の18戸、宮古島5戸の計40戸が大野山林の一角に入植して始まった。異郷の人たちによる開拓だったが、心を一つに一致団結して新天地を切り拓いた。移住から今年は56年目。当時10坪だったスラブ造りの住宅はりっぱな家に建て替えられ、かんがい用水も万遍なく通水するなど発展した。公民館の敷地には「団結」「闘魂」などと刻んだ石碑が建ち「開拓精神」を後世に伝えている。一方、現在の人口は90人と移住当時の275人と比べ185人(約7割)減り、少子高齢化が課題になっている。

「開拓に燃えていた」/伊佐秀夫さん(83)
40人寝食共に家づくり


ブーゲンビレアの前で伊佐秀夫さん

ブーゲンビレアの前で伊佐秀夫さん

 移住世帯40戸の戸主40人の共同生活は1961年4月25日、高野公民館で始まった。伊佐秀夫さん(83、大神島出身)の移住は27歳のとき。「そのころは働き盛りのばりばり。疲れも感じず開拓に燃えていた」と当時を振り返った。
 40人の集団生活では、食料班も必要になる。食事づくりは若い人が担当し、毎日のように煮干しだしのソーメン汁が食卓に上った。海の漁は全員がおてのもの。近くの海で取れるおいしい海の幸には事欠かなかった。
 40戸の建築の基礎や柱、屋根のコンクリート打設作業は40人全員が、ユイマールで行った。ミキサー車がなかったころで、セメントに砂利や砂、水を混ぜて練る手作業のコンクリート作りは重労働だった。6月30日から始まった40戸の住宅建築は9月8日に完了した。「暑い日が多く公民館の屋上に、蚊もいるのに一晩中寝たこともあった」と思い出の一こまを話した。
 移住後の生活は農業収入(主にサトウキビ)と漁業収入を得て安定するようになった。一方、低地のため大雨や台風のたびに床上まで溜まる水害が一番の悩みになっていた。冠水の水位は多い時は1㍍以上。まるで湖のようだったという。伊佐さんは子供は箪笥の上に避難させた。畳はテーブルを重ねて、その上に置いて濡れないようにした。現在は排水路が整備され解消した。
 現在の住宅は20坪。移住から15年後に建て替えた。趣味は盆栽。住宅の玄関にはブーゲンビレアの盆栽が並び、季節の花が彩っている。

タコ取りの名人/知念良夫さん(81)
1日に30㌔の大漁も


取れ立てのタコを両手に持つ知念良夫さん

取れ立てのタコを両手に持つ知念良夫さん

 知念良夫さん(81、水納島出身)は早朝8時、愛船「太成丸」に乗って高野漁港を出発した。15分後、高野沖合の漁場(イノー)に着き、いかりを下ろした。最初のタコの住処(穴、方言名アディフ)に銛をいれると、タコの感触がありくすぐるようにして外に追い出して仕留めた。重さ2㌔といいサイズだった。
 高野の住民は知念さんを「タコ取り名人」と呼ぶ。知念さんはアディフを何百カ所も覚え、順序良く巡って1日に30㌔も取る。一般の人だとタコの体色がサンゴ礁と区別しにくく、偶然に踏んづけてタコと分かることもあるというから、タコと遭遇する確率は低い。
 タコ漁は「アディフに銛を入れる時に感じる(在否確認の)緊張感が魅力」という。タコ漁は水納島にいたころの18歳から始め、漁歴は60年以上になる。これまでに取ったタコで最も大きかったのは7・3㌔。タコの足にからまれないよう慎重に誘導して急所に一撃した。
 「タコは1カ所のアディフで取れると、周辺のアディフにいる可能性が高い」と分布の特徴を紹介。この日は幸先良いスタートだったので大漁の予感がした。タコの数は20匹、重さは25㌔だった。ホラ貝も1個、引き縄でカツオ7匹も釣った。「きょうは大漁だよ」と笑顔だった。
 「アディフは教えてもいいけど、後をついて覚えようとする人がいない」と話す。伝統のタコ漁は後継者育成が課題になっている。

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