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美ぎスマ
2018年10月27日(土)8:54

【美ぎスマ】「和み栄えて幸あれ」/上野地区・豊原集落

 仲元銀太郎さん(1911年~1998年)の生家は豊原公民館のシバラ(後ろ隣)にある。沖縄師範学校を卒業後、40年間教師の道を歩んだ。定年後、故郷に帰り近所の人と一緒に農作業に汗を流し、班長や旧上野村の社会教育委員を務めるなど地域に溶け込んだ。1972年には故郷へ愛を込め新しい公民館の記念碑に「豊原は我が故郷ぞ美しく和み栄えて永遠に幸あれ」と刻んだ。名歌「えんどうの花」を作詞した金城栄治は小学6年生の時の担任だった。このころ、金城先生から詩心の感化を受けた。銀太郎さんは「新宮古建設の歌」や「宮古中体連の歌」「上野村歌」「上野中」「砂川中」「大神校」の校歌などを世に残している。1992(平成4)年勲五等瑞宝章(教育功労)を受章した。



公民館に歌碑/故仲元銀太郎さん
金城栄治(えんどうの花の作詞者)師に詩心
「新宮古建設の歌」「校歌」など残す


豊原に愛を込めた歌を刻んだ歌碑

豊原に愛を込めた歌を刻んだ歌碑

 1999年エッセー集「流れ 流され」が発刊された。三男嫁の智枝さんが編集した。「教師雑感」や「故郷回帰」など五つの章で構成する。文章は読みやすく自分の頭で考え、見たままの繊細な感性が息づき、読む人を引き込む。

 15歳の時に師範学校に入学し40年の教職を経て豊原に帰った。「(故郷回帰は)、熟した果実(本人)が母樹の下にポツリと転がり落ちて住みついた」ようなものと例えた。故郷を振り切って走り続けた半生は「さすらいの旅ではなかっただろうか」と振り返った。

 年に7回御嶽に集い神様に祈り、酒を酌み交わした。雨の日は三線も手にしたりした。そんな素朴な生活がそれまでの教養主義を一変させ、先祖から引き継いできた文化の素晴らしさを実感させたという。

 新里尋常小学校(現在の上野小学校)6年生の時に金城栄治と出会った。当時は学校の近くにエンドウが栽培され、白い美しい花を咲かせていた。その花の咲くころ先生は上野小を去った。「えんどうの花」は「上野に対する総合的情緒」。「妹をおぶって暮れ方に イチゴをとりにいった山」の一節は「貧しい農村の中で育つ私たちに寄せられた愛情の表現」と想いを巡らした。「えんどうの花のふる里」の碑が新里尋常小学校跡地(新里)に建てられている。

 13年前ごろ金城栄治の出生地や「えんどうの花のふる里」論議があったが、栄治の甥の金城昭夫さん(南城市在)が本紙に投稿を寄せて宮古島(市場通りの商店)に生まれたことを明らかにした。「えんどうの花」のメロディーは今でも親しまれている。

 少年のころは馬に乗り、草刈りに駆けた。鋤を馬に引かす馬耕も上手だったと自負する。小学校高等科2年の時、下地恵常先生の授業を受けて勉強の楽しさに目覚めた。成績が伸びて、十五の春には「鋤を捨てて」師範学校に入学した。男子寮でお化けに扮して、寮生を失神させるまでびっくりさせたなど、奇想天外な話が面白い。

 師範学校を卒業して最初に城辺尋常高等小学校に赴任し、2年生を受け持った。若い教師は「落ちこぼれを出すまい」と燃えていた。しかし思うあまりに計算の苦手な女の子を叱ったことがあった。このことで心を痛めていたが、晩年、この子に出会った時りっぱな大人になったと知り、心が和んだという。

 専門は世界史だが宮古水産高校の時は、音楽を担当した。音楽の本にある歌ではなく流行歌「青春サイクリング」などを歌わせ、校長に怒られたという(次男成美さんの話)。終戦から年後のことで、このころには戦前の「愛国先生」から「自由を愛する先生」に変身していた。

 1947年宮古民政府が募集した「新宮古建設の歌」に応募し一等賞に選ばれた。「苦難の道続いてもスクラム組んで(中略)希望に燃えて進むのだ」。この歌は食糧にも事欠く戦後混乱期の人々を勇気づけた。

 成美さんによると賞金は一千ドル。作曲した豊見山恵永さんと半分ずつ分けた。500㌦は家一軒が建つほどの大金だった。銀太郎さんは毎晩、同僚を引き連れて料亭で飲み、半年で使い果たした。教育者、作詞家、エッセイストとして知られるが、型破りで人付き合いの好きな人でもあった。

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