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私見公論
2018年11月10日(土)8:54

【私見公論】多良間 勉/なぜ? 宮古島にトライアスロンが開催されたか㊦

~開催までの関係者の動き~

 宮古の素早い動きと強力なリーダーの存在

 昭和59年9月、開催に向けて動き出した。しかし、宮古の人々はトライアスロンという競技を誰も知らない。ハワイに学ぶべく10月には各市町村長・議員、宮古体育協会役員らはアイアンマン大会を視察する。帰島後、宮古体育協会理事長の宮国猛先生や宮古広域圏協議会の長濱幸男事務局長を中心に組織づくりや大会準備等が急ピッチで進められた。11月にはトライアスロン実行委員会が結成された。初代競技総務部長となった宮国猛先生は最初の部長会で「どうしますか? どのようにしたら良いですかではなく、トライアスロン大会運営に限っては辞書もなければ参考書も無い。君も知らなければ僕も知らない、宮古の誰も知らない。だから自分で考え自分で創り出してほしい」と指示。まさに手探りの突貫工事そのものでした。猛先生は西城学区出身で他の市町村に先駆けて城辺町体育協会を設立したり、県民体育大会先島への誘致や選手派遣費等を行政に予算化させるなど実にパイオニア精神に富んだ先生であった。猛先生は誰もが認める宮古スポーツ界のトップリーダーでトライアスロン開催は先生の強力なリーダーとしての存在が大きかった。

 嶋袋浩企画局長、資金づくりのため全国行脚

 琉球新報社の嶋袋浩氏は、東京支社長から本社の初代企画局長となり、伊豆見社長から宮古でトライアスロンができるか?検討するよう指示されていたようだ。そして、琉球新報社が主催に加わったことで伊豆見社長は社としての推進役を嶋袋氏に委ねている。そのため、嶋袋氏は頻繁に宮古に通い長濱事務局長や猛先生と会合を重ねた。そして多くの課題を解決している。中でも特筆すべきことは資金づくりである。以下、嶋袋氏の回想録より:「東西南北スポンサー探しに邁進・行脚する。どんなに見積もっても2700万円から3000万円は必要。年度の途中に持ち上がった企画なので各市町村からは予備費などをかき集めても500万円しかできない。東京で営業広告の業務を体験してきた私はメインスポンサーに日本航空を設定し直接交渉に入った。他、南西航空、オリオンビールをはじめ十数社連日足を運び頭を下げた。東京での営業経験が役立った」※資金づくりは当時の地元関係者では厳しく、嶋袋氏の貢献度は実に多大なものであった。

 タイミング良いNHKの衛星試験放送

 NHKは乗り気であった。全国放送するに値する内容の大会にしてもらいたい等の強い要望があったようだ。NHKは衛星放送の能力を試し、21世紀型のスポーツに対応できるノウハウを蓄積したかった。そのため、当時まだNHKにも2台しかなかった衛星中継車の1台を宮古に輸送した。ヘリコプターも手配され、スタッフ約200名も派遣した。さらに、中継に使うテーマソングを高石ともやに依頼していた。そして、大会当日はレースの経過を総合チャンネルで追い、高石ともやの「長い道」が流れる中、野中ともよキャスターが司会をし、水泳スタート前の早朝6時台から夜の11時まで、断続的とはいえ一日中、宮古島から全国へ映像が流れる空前の事態となった。こうして、NHKが衛星放送で中継した第1回大会は日本中が宮古島に注目した歴史的な大会となった。

 宮古トライアスロン開催は、天の時と偶然が重なる

 時は昭和58年、県高校駅伝大会が宮古で開催された。一方、宮古島東急ホテルはオープン間もない時期で知名度の低い宮古島を売り出すためのイベントを考えていた。また、折から宮古島は昭和59年に自治省の地域活性化推進地域の指定を受け新たな地域づくり・宮古島活性化計画を検討中であった。そういう時代背景の中、1本のビデオテープが琉球新報社に持ち込まれた。偶然にもそのビデオテープは翌日宮古へ。さらに偶然が重なり、翌日には市町村長がビデオで観戦した。後日、琉球新報社の主催加入も伊豆見社長が県高校駅伝を観戦したことが功を奏しクリアされた。また、宮古広域圏協議会もトライアスロンが地域活性化に役立つイベントになり得ると判断した。さらに、NHKの絶大な協力があった。まさに、天の時と偶然が重なり、全てのことがジグソーパズルのごとくはまっていった。かくして、県高校駅伝大会から1年半、開催決定から半年という短期間でトライアスロンは盛大に開催された。(宮古陸上競技協会顧問)

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