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ペン遊・ペン楽
2011年8月10日(水)23:00

「おひさま」の時代/仲宗根 浩二

ペン遊ペン楽 2011.8.11


 NHK朝ドラ「おひさま」の語り・若尾文子が画面に登場し、昭和7年・10歳の陽子が安曇野に引っ越したこと、昭和13~14年・花の女学生時代の陽子を回想して、「あの頃は、私にとっていい時代だったかもしれない」と懐かしむように語りドラマを進行させる。その「いい時代だった」と言う言葉の意味が気になった。当時の宮古を思い出してみる。



 昭和16年に尋常小学校を国民学校と改称し、生徒を少国民と言っていたらしい。私は言われた覚えがない。ドラマで少国民たちは強い兵隊になるために、海軍体操をしたり、竹やりで藁人形を突く訓練を経験させられる。父兄が出征している生徒は、訓練にも力が入り「兵隊さんよありがとう」と歌う姿も健気に見えた。

 昭和17~18年、平良第一国民学校では竹やり訓練を見たことはなかったが、昭和19年疎開が始まる前、下里市場東角の交番所前に「イギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、支那の蒋介石」の3人の似顔絵を書いた石油缶をぶら下げておき、通りがかりの人が棒でたたいていたことは忘れない。鬼畜米英の撃退である。

 夜になると、婦人会のおばさんたちが竹やり訓練をしていたが、藁人形はなかった。消火訓練も、深さ20㍍の井戸から水をくむのは大変なので、空のバケツを手渡していた。それよりも整列とか行進とかの訓練の方が婦人たちには大変だったようだ。

 「壁に耳ありスパイに注意!」という標語があちこちに貼られ、軍政を批判する者を取り締まっていたらしい。「戦争に行きたくない」とか、「死にたくない」とかは、たとえ親子の間でも絶対に言ってはならなかった。

 昭和10年頃から世界情勢がおかしくなり、日本も中国大陸で戦争になる気配があったらしい。「私が生まれたばかりのとき、父は急いで熊本連隊に応召した」と母がぼやいていた。実際に日支事変(当時の言い方)が勃発した昭和13年には、南京の戦場に勇んで出征したが、銃弾で負傷して帰還している。

 そんな戦場経験から、「空襲で爆弾や焼夷弾が投下されたら、逃げるのが精いっぱいで、消火活動などできない」と分かっていても、「口に出せないどころか、消火訓練を指揮する立場にあったのは仕方なかった」と戦後になって話していた。

 入学前の昭和16年12月ハワイの真珠湾攻撃と昭和17年2月シンガポール陥落のときに提灯行列をしたことも覚えている。この戦勝ムードの中で「日本は神の国だから必ず勝つ」という精神が子供心に芽生えたのだと思う。

 ドラマで生徒たちが歌った「兵隊さんよありがとう」という唱歌の歌詞を調べてみた。「肩を並べて兄さんと、今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのおかげです。お国のために、お国のために戦った、兵隊さんのおかげです」と歌う。2番以降、「お国のために傷ついた」「~戦死した」「~尽くされた」と、兵隊が戦死するのは当然だという精神教育の歌である。この歌は、朝日新聞社・全国募集の応募当選歌だというから驚きだ。  こうして日本は自国を神国と位置付け、外国を野蛮な国と蔑むことで、侵略戦争を正当化しようとしたと思われる。戦争中、無邪気に過ごしたことが不思議でならない。

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