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私見公論
2012年2月3日(金)23:05

苦言、提言、ホラ吹き(3)/棚原 恵照

県営公園調査は平成2年度県予算についていた
私見公論17


 昨年暮れ、市長、議会議長、体協会長等が宮古関係県議をともなって、県営宮古総合運動公園誘致を県知事に要請をした旨を新聞で知った。どうして今、要請行動か、と思った者は私一人かもしれない。なぜか。

 私は昭和62年4月、建設課長から都市計画課長に異動を命じられ、日常業務の中で宮古地区における県営公園の必要性について、職員と協議を重ねていた。

 その頃、偶然にも当時の建設省公園担当官が平良市視察で来島された。この機会を絶好のチャンスと捉え、旧平良市全域を案内し、夜は小さな酒座でホラを交えながら市の公園実情を訴えた。それが後に県都市計画課に伝わったようだが、そのことは誰も教えてくれなかった。

 しかし、県都市計画課の平成2年度予算(調査費)700万円要求が出されていることを知った。しかし、喜びもつかの間、県総務部の第一次査定でバッサリ削られゼロになった。私はそのことを下地米一元市長に報告した。米一元市長は早速、当時の西銘県知事に復活要請をした。その結果事務方の要求した700万円ではなく、1000万円の増額復活になった。県都市計画課職員はもちろんであるが、平良市もうれしくなるやらビックリするやらしたことを20年過ぎた今でもハッキリ覚えている。

 ところが、その年度の後半、平成元年11月25日、何の前触れもなく私は都市計画課から企画室へ異動を命ぜられ、県営公園問題にタッチすることができなくなった。しかし、県都市計画課としてはいよいよ宮古地域県営公園建設に動き始めていた。「株式会社国建」に調査が委託発注され、その第一調査で当時の「アイ造園」が来島したことを後で知った。これまでの公園とは趣を変えて、海を活かすことと住環境も公園の中に取り入れたいという壮大な計画を立てた。池間島の湿原を中心に八重干瀬・大神島・狩俣漁港を線で結ぶ広大な面積の計画を進めようとしていたのである。

 旧平良市としても賛同して、池間住民の理解を深めることになった。ところが、那覇在住の池間出身者の方々の話題になり、その中の2人が猛然と反対を唱えることになり、池間の方々に反対するよう宣伝した。そのため池間島で賛成行動をする人がいなくなった。元米一市長としてはなんとか池間の住民を説得して県営公園事業を進めるように考えていたが、肝心なスタッフの動きが弱く、ついに立ち消えになってしまった。私は反対している2人と私的交友関係があったので那覇まで行き、話し合いをしたが理解してもらえず、ついに喧嘩にまで発展してしまった。昨年末の市長を先頭にした県知事への要請行動を知ったとき、過去の複雑な思いを想起した。

 それは、私一人かもしれない。行政は継続しているはずなのに、いや継続でなければならない。にもかかわらず、どこで途切れたのか全く不可解である。市が池間の後、県都市計画課と対応を考え続けておれば今のようなことにはならなかったはずである。例えば、必ずしも池間島にしがみつかなくても道はいくらでもあったはずである。当時の職員や市議会議員の発想力のなさが今さらながら悔やまれる。

 選挙の際は「革新」だ「保守」だと騒ぐが、仕事は「人」であり、発想、情熱、行動力である。沖縄が日本に復帰する前、宮古の電力問題を捉えたのは旧平良市議会であった。宮古の他の町村議会にも働きかけ、宮古電力を沖縄電力公社に譲渡しなければならない、そうしなければ、電力料金が沖縄本島並みに値下げできない。そのことを知った議会が積極的に当局をバックアップして解決した実績がある。今の議会でも合併の意義をしっかり検証すべきことがあるはずだ。県営宮古総合運動公園誘致運動は必ず成功してほしいが、20年前の状態より市のリスクは必ず高くつくだろう。市長が要請の際に県知事に具申していたように土地提供等を考えると、議会も腰をすえて取り組む必要がある。

 「禍を転じて福と為す」。今こそ市民の健康増進につながる利用しやすい大規模な公園を造るべきである。

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