旅に学ぶ~時がつくる価値~/伊志嶺 敏子
私見公論 37
今から35年ほど前、建築を学ぶ若者のためのヨーロッパツアーに参加した。初めての海外旅行である。当時の国際航空事情は、モスクワ上空を飛ぶことができず、アラスカを経由するか、東南アジアを経由する南回りの二つのコースであった。そのときの私の初旅は南回りで、確か24時間近くかかって第一目的地ギリシャのアテネに到着したのだった。今時のヨーロッパ直行の11時間と比べると倍長い。しかし、マニラ、バンコク、デリー、ドバイ等の空港を経由するので、次々に乗ってくる異国の乗客の姿や、その都度出される機内食の珍しさもあり、それはそれで楽しめた。
教科書をなぞるがごとく、ギリシャのアテネから始まり、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ、スイス、イギリス、オランダ、古代から近代建築へと順を追った旅であった。「百聞は一見に如かず」を実感して、この旅で私の意識は随分と広がった、と思う。建造物に直に触れる感動、歓び、私は夢の中にいるような心持であった。
旅をすると、人は誰でもそうだと思うのだが、自分の住む場所と照らし合わせ、その異差になぜ? と自問自答を始める。
ローマの街でのこと。地下のアンティーク風なレストランで昼食をとった。「ここは古代ローマ時代のものです」と、ガイドの説明に大変驚いた。本物なんだ! ローマの街を見渡せば、歴史的建造物だけではなく、石畳の道も、人々の住まいも店も、下水道までも、全てが本物のアンティーク。食べ物にしたって、ポンペイ遺跡のガイドは言っていた。「われわれは2000年前から同じパンを食べていますよ」
人々の暮らしの基をなすものが変わらずに在る。「ストック」がある。「時がつくる価値」がある。そういう価値を求めて旅人はこの場所にやってくる。
イタリアの人々は、人生の幸せは、マンジャーレ(食べること)、カンターレ(歌うこと)、アモーレ(愛すること)にある、と言っている。人生を達観する余裕が、そこにはあると思った。
人、暮らし、街、建築、背景としての自然環境、歴史、等もろもろの事象を風景として見ていると、さて、わが宮古はどうだろうか、という思いが頭をもたげてくる。
その後に設計事務所開設に恵まれ、手始めに宮古中の建築事情を知るため、また「時がつくる価値」を発見するため、多くの現場に足を運んだ。1959年のサラ台風の被害の後に作られた初期のコンクリート造は素朴ながらも丁寧な造りである。しかし、その後の住宅建設ラッシュ期の物件は粗製乱造。とても長持ちするような造りではない。築年経たずに建て替えの設計依頼を受けたときは大変驚いた。そしてまたその後、生コンの質はかなり良くなり現在に至るわけだが、課題は、まだある。メンテナンスである。新築時の建設費に無理をしたせいか、あるいは、メンテナンスそのものに無頓着なのか。いずれにしろ老朽化は免れず資産価値を失い非常に残念なことである。手入れをして何世代にもわたり住み継がれる家、街、人々の暮らしの贅沢さとは違うゆとり感、成熟とはこういうことか。折々にそのときの旅の印象風景を思い返し、成熟はメンテナンス、手入れをすることに有りということを、設計の重要な課題としている。
数年前、西里大通り商店街に面する建物の築年数を調べたことがある。数軒を除き、他は昭和39年から昭和57年までの昭和の建物群であった。改めてその外観をみると、宮古の昭和という時代を感じさせ、決してスマートなデザインとは言い難いが、懐かしさがある。また、素朴な工夫には、親しみを覚え無理がない。読者の皆さま方も、見なれた街並みを改めてご覧ください。それはきっと、老いて成熟へ向かうのもいいと思え、新しさの価値に追われてくたびれている人には安らぎを与えてくれるでしょう。手入れをして「時がつくる価値」を再発見してみませんか。