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ペン遊・ペン楽
2012年10月24日(水)22:43

ネフスキーは、なぜ宮古島なのか/下地 和宏

2012.10.25 ペン遊ペン楽

 

 先日、ニコライ・A・ネフスキー生誕120年記念シンポジウムが催された。テーマは「ネフスキーと宮古研究~その業績と評価をめぐって~」。2011年には市制55周年記念シンポジウム「ネフスキーの残したもの」が催されている。


 ネフスキーは1892年生まれのロシアの東洋学者で、大正末から昭和初めにかけての1922年、26年、28年の3回宮古に訪れ、その研究成果を『民族』で発表している。ロシア人ネフスキーによる宮古研究の重要性が世間に注目されることになる。

 ネフスキーはペテルブルグ大学の官費留学として1915年日本に留学、柳田國男・折口信夫・金田一京助らと親交を深めた。とくに柳田は〝唯一の師〟として傾倒した。2年の留学を終える頃、故国ロシアでは2月革命(新暦3月)が起こり帰国を逸した。このロシア革命は、ネフスキーの宮古研究の遠因ともなった。

 それにしても、なぜ宮古島だったのか。大いに興味をそそがれる。ネフスキーは、日本の古語・古俗は日本列島の縁辺部に残っているという考え方を持っていたようである。それならば、宮古ではなく八重山でよかったはずである。田中水絵や狩俣繁久が指摘するように、八重山出身の言語学者宮良當壮との出会いを無視することはできない。

 1921年3月、折口宅に柳田や金田一、ネフスキーらが集まっていた。そこに宮良が訪れた。柳田からネフスキーを紹介された。ネフスキーは「サ、宮良君!」と盃をすすめた。宮良は八重山の歌を2、3曲歌って講釈した。帰り道、ネフスキーがコーカサスあたりの蛙の鳴き声をしたので、その妙な音に驚き、とても真似られない、と宮良は日記に記している。宮良はネフスキーの1年後輩である。

 出会いから3日後、宮良は約束に応じてネフスキー宿舎を朝訪れた。ネフスキーは休暇を利用して北海道から上京していた。2人は言語学上の問題について討議した。昼からロシア国大使館付の日本新聞翻訳官プレトネルも加わり、3人で討議を重ねた。ネフスキーが回らぬ舌を上へ下へさまざまにして漸く発音したことの熱心さに宮良は感心している。2人のロシア人が鶏の雄雌、七面鳥、犬の鳴き声を真似たので宮良は大いに笑倒した、という。動物の鳴き声に興ずるネフスキーの得意気な顔が見えるようである。

 言語学上の問題討議は朝から夜まで半日を費やしている。ネフスキーは「メモ魔」「質問魔」として知られているので、宮良も質問ぜめにあったことはうかがい知れる。八重山を研究している宮良に出会い、ネフスキーは宮古への思いを固めたものと思われる。

 宮古語研究のために島の出身者をさがすことになる。1921年東京高等師範学校に復学した稲村賢敷に「宮古島方言を調べたがって、島の出身者をさがしているロシア人がいる。君ひとつ教えてやってくれぬか」と寮の舎監から言われた、と、述懐していることからもうなずける。稲村はネフスキーの2年後輩である。

 ネフスキーの宮古研究は大いに評価され、旧平良市は市制55周年記念して、2002年「宮古研究之先駆者 ニコライ・A・ネフスキー」の顕彰碑を建立した。ちなみにネフスキーの影響を受けた慶世村恒任(ネフスキーの1年後輩)は、「宮古研究之父」として1980年に顕彰碑が建立された。
(宮古ペンクラブ会員)

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