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宮古の事業家・下地米一の生涯
2013年12月1日(日)9:00

宮古の事業家・下地米一の生涯⑥

宮古島を全国区の観光地に

◆東京直行便の就航


宮古-東京直行便就航第一便のテープカット。写真中央が下地米一市長

宮古-東京直行便就航第一便のテープカット。写真中央が下地米一市長

平良市(現宮古島市)市長の下地米一は、1986(昭和61)年7月の就任の半年後には、島人の長年の願いであった地下ダムの予算獲得に成功。このままの勢いで、もう一つの悲願であった飛行機の東京直行便就航に取りくむ。地下ダム予算をめぐる大蔵省(現財務省)との折衝で培った中央政界とのパイプと、”宮古はひとつ”のキャッチフレーズのもとに団結した六市町村会が武器である。

東京直行便は観光資源を活かす鍵であった。しかし度重なる要請にもかかわらず、運輸省は、「羽田空港の増便枠を待つ他の路線に比べて、東京・宮古間は緊急性が薄い。先行きを見込んだ先行投資だけでは路線認可は難しい」との見解のままであった。宮古島には、美しい珊瑚礁も白い砂浜も珍しい鳥が集まる湿地も独特の文化もある。観光客を呼ぶには、ぜひとも宮古島と関東を直に結びたかった。
米一市長は、1987(昭和62)年3月に、初代沖縄開発庁長官で沖縄の本土復帰に尽力した山中貞則を宮古に招いたのをはじめ、当時の沖縄開発庁長官の綿貫民輔や沖縄県知事の西銘順治ら有力政治家を次々と宮古島視察に招き、東京直行便の重要性をアピール。要請団を率いて東京にも向かい、運輸省の課長や局長、そして運輸行政に影響力のあった佐藤文生元郵政大臣、さらには運輸大臣の石原慎太郎へも直接の要請を重ねた。
その結果、1989(平成元)年2月、羽田の新A滑走路完成にともなう羽田発着便枠路線配分の運輸省発表のなかに、宮古・東京間の新規路線が入ったのである。航空会社は、南西航空(現日本トランスオーシャン航空)で決まり、1989(平成元)年7月22日、初の東京直行便が羽田を飛び立った。当時、六市町村会の一員として直行便実現に力を注いだ上野村(現宮古島市)元村長の砂川功は、「米一市長は、経済界から来て、度胸があった。県に対しても国に対しても引くことはなかった」と振り返る。

◆プロ野球キャンプの誘致

空の便で東京と直につながることが決まったころ、青年会議所の坂井民二や平良勝之らが、プロ野球キャンプ誘致を米一市長に提案した。プロ野球が来れば、新聞やテレビが、スポーツニュースに乗せて宮古の名と恵まれた自然を全国に広めてくれる。観光振興にも弾みがつくはずだ。提案をじっくり聞いた米一市長は、考えを巡らせる表情を見せたのち、「よし!やろう!」の一言で決断したという。
当時、プロ野球のキャンプ地として沖縄が注目を浴び、県内各地で誘致競争がはじまろうとしていた。米一市長は、すぐさま沖縄県内のプロ野球キャンプ地へと視察に向かった。そしてプロ野球基準を満たす両翼100メートル規模の球場の建設用地を二重越道路の先にある西仲宗根地区に決め、新球場の設計を指示したのだ。
米一市長は、ものごとの決断時には緻密に思考するが、いったん実行を決断すると大胆に素早く動く。目標に向かう過程で問題が浮かび上がれば、順次それを解決していく。最初の壁は、防衛施設庁の予算獲得だった。市の職員が同庁に球場の図面を持って予算の申請に行くと、「予算は市民の健康増進をはかるものだから、プロ用の球場建設には使えない」との返事であった。報告を聞いた米一市長は、将来を見すえた議論で同庁を説得し、新球場建設の予算を確保する。
野球が盛んな宮古ではあるが、「本当にプロ野球が来てくれるのか」との疑問の声も、このころにあがっていた。誘致運動を盛りあげるため、何かが必要だ。米一市長と青年会議所は、読売巨人軍監督(第一期)を勇退したばかりの長嶋茂雄を宮古に招くことにする。講演会への招待に気さくに応じてくれた伝説のスター長嶋に、宮古は島を挙げて熱狂し、プロ野球誘致が現実のものとして受け止められるようになっていった。講演会の帰り、市民球場予定地のサトウキビ畑に案内された長島は、「宮古の人は、すごいことを考えますね」と独特の調子で感嘆したという。
次に持ちあがったのは、雨天練習場の問題だ。打診していた球団から、雨が多い沖縄の2月にキャンプを張るには、室内の練習場が欲しいとの意見がもたらされたのだ。米一市長らは、東京直行便の就航が決まったばかりの南西航空に支援を要請。雨天練習場の総工費4億円のうち3億円を南西航空が、残りの1億円を市が出すことに決まった。「いちはやく屋内練習場を建設したことが、誘致競争の決め手になった」と、市職員の安谷屋政秀が振り返る。
新球場の完成は、1992(平成4)年2月。翌年から、宮古島市民球場で春季のキャンプを張るオリックス・バッファローズのニュースが、毎日全国で放送されるようになった。イチロー(現ニューヨーク・ヤンキース)が、日本人選手としてはじめてファーストネームでの選手名登録を発表したのも宮古島市民球場で、その模様が全国に流れた。プロ野球のキャンプが終わる3月はじめからは、全国各地から社会人野球・大学野球部・高校野球部が合宿にやってくる。宮古島の名が全国区となったのである。(敬称略)

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