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私見公論
2017年5月12日(金)9:01

【私見公論】イノシシと人との関わり合い/久貝 弥嗣

 近年、宮古島市内においても、イノシシによる農作物への被害が深刻化していることがよく報道されている。沖縄県内に生息するイノシシは、リュウキュウイノシシに分類され、日本本土のイノシシに比べて小型である。県内では、沖縄本島の北部や、石垣島、西表島などに生息しており、宮古島には生息しない動物とされている。そのため、現在確認されているイノシシは、島外から持ち込まれたイノシシが野生化したものと考えられている。現在では、農作物を荒らす害獣としてのイメージも強いイノシシであるが、何万年もの昔から人が生活をしていく中で非常に密接な関わりをもった動物であることも間違いない。今回は、発掘調査の成果からイノシシと人との関わりについて考えてみたい。

 ご存知の方も多いと思うが、遠い昔には、宮古島にもイノシシが生息していたことが発掘調査から分かっている。日本本土の旧石器時代に位置づけられる約2万5000年前のピンザアブ遺跡からは、イノシシ骨が出土している。また、南小学校に隣接する大原南公園内のツヅピスキアブの発掘調査で出土したイノシシの骨の年代測定を行ったところ約1万年前のイノシシであることが分かってきている。このことから少なくとも1万年前までは、イノシシが宮古島に生息し、人々はそのイノシシを狩猟していたことが分かってきている。しかし、この時代の人々の遺跡は、この1万年前を境に途切れてしまう。

 次に宮古島に人が住み始めるのは、約2900年から1200年前までの無土器期と呼ばれる時代になる。その時代名が示すように、この時代の遺跡からは土器が全く出土しないというのが大きな特徴の一つでもある。この無土器期の遺跡からも、多くのイノシシの骨が出土するが、2012年から2013年にかけて発掘調査がおこなわれた友利元島遺跡では、これまでにない新たなイノシシとの関わりが注目を浴びている。端的に述べると、約1500~1200年前の友利元島遺跡の人々は、狩猟によってイノシシを獲るのではなく、イノシシを管理して食していた可能性が高いのである。これは、遺跡から出土するイノシシの年齢が1歳前後という若い年齢段階にまとまっていたことや、雄と雌の比率が5対1という非自然的な出土状況をしていることを根拠にしている。周知のようにイノシシを人為的に家畜化したのがブタである。典型的なイノシシとブタは、見た目にも容易に見分けがつくが、骨にも大きな違いが現れる。友利元島遺跡出土のイノシシの骨は、その形態や大きさからみて、ほとんどイノシシに近い形態をしている。おそらくは、餌付けをするなどの方法で、イノシシと人が共有する空間を作り出し、管理していたと考えられる。しかし、この無土器期の人々の遺跡も、約1200年前を境に確認されなくなる。

 次に、宮古島に人が住み始めるのは無土器期から300年後の約900年前から500年前のグスク時代になる。グスク時代の遺跡からは、中国との交易によってもたらされた陶磁器や、宮古島産の土器が遺跡から多量に出土するようになる。このグスク時代の古い遺跡の動物骨をみるとイノシシもしくはブタの骨はほぼ全く出土せず、その大部分はウシで占められている。つまり、グスク時代に入るとイノシシへの食料としての需要は全くなくなり、ウシが重要な役割を果たすように変化していることがみてとれる。イノシシもしくはブタの骨が改めて出土し始めるのは、15世紀前半以降のことである。果たして自生していたイノシシを再度狩猟し始めたのか、はたまた無土器期のイノシシとは別のルートで島に持ち込まれたのか非常に興味深い問題である。

 いずれにしても、宮古島においても旧石器時代、無土器期、グスク時代とイノシシと人との関わり合いは時代によって変化してきていることが発掘調査からみてとれる。その変化とは、おそらく各時代の人々の生活スタイルによるものであり、それは現在でも同様で、現在の生活スタイルの中にはややなじまないようである。

 久貝 弥嗣(くがい・みつぐ)1980年生まれ。宮古島市平良出身。99年琉球大学法文学部入学。03年卒業。03年~06年沖縄県立埋蔵文化財センターで嘱託員。06年豊見城市教育委員会嘱託、07~10年宮古島市教育委員会嘱託員。2010年宮古島市教育委員会(学芸員)採用。考古学を専攻(主にグスク時代、戦争遺跡、自然災害について研究)。宮古郷土史研究会会員。沖縄考古学会会員。

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