「武器持った66人」/牡丹社事件
台湾説明板に記述/宮古出身遺族、削除求める
【那覇支社】牡丹社事件(宮古島民遭難事件)を記した台湾説明板に「武器を持った66人の成人男子が部落にやってきた」と記述されていることが判明し、宮古島市出身の遺族が同文の削除か説明板の撤去を求めていることが26日までに分かった。愛と平和をテーマにした友好親善のための追悼式と同学術会議は一転して、歴史検証の論戦を引き起こす火種となりそうだ。
1871年に台湾南部の屏東県牡丹郷に漂着した宮古島民54人が原住民族のパイワン族に殺害された牡丹社事件から140年の節目に当たる今年、慰霊祭と国際学術会議(主催・台湾研究基金会)が11月24~27日の日程で現地、台湾で開かれた。 台湾側の主催で開かれた追悼式と学術会議に出席し、同説明板の記述を指摘した遺族は、宮古島の有力者だった野原茶武(ちゃむ)さんの子孫、野原耕栄さん(63)=浦添市在住、上野出身。同学術会議で遺族を代表して論文を発表した翌27日に同事件を記念する公園内で同説明文を確認した。
説明版には、「武器を持った66人」「部落への圧力と脅威だった」との記述があり、武器を手にした宮古住民の絵も描かれている。説明文は台湾の研究者らがまとめ、今年になって公園内に建てたという。
野原さんは「祖先は事件の被害者なのに、襲撃で命を落としたとも受け取られかねない。遺族としては見逃せない」と述べ、「不確実な記述は歴史事実をねじ曲げる要因にもなる」と憤り、早急に同記述の削除か説明板そのものを撤去するよう求めている。
同学術会議に出席した又吉盛清沖縄大学大学院客員教授(沖縄・東アジア学)によると、「宮古島住民が武器を持っていたとの文献は存在しない。武器に替わる道具を携帯していたかどうかも、まだ十分な研究や調査は行われていない」と説明し、どのような経緯で同説明文が記述されたのかを調査するため、来年2月にも台湾を再訪問するとしている。
牡丹社事件 琉球王国時代の1871年、宮古島民の乗った船が首里王府に年貢を納めた帰り、台風で台湾南部の八瑶湾に漂着。乗員69人のうち3人は水死し、残り66人は先住民族、パイワン族の集落である牡丹社に助けを求めたが54人は殺害された。生き残った12人が助けられ、中国の福建省を経由し那覇に帰った。同事件を大義名分にした明治政府の台湾出兵(1874年)、琉球処分(1879年)や日清戦争開戦(1894年)など、その後、近代日本の軍部台頭と植民地支配の口実に利用された。