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70周年記念企画
2025年7月30日(水)15:00

宮古毎日新聞創刊70周年記念企画「小禄邦男氏インタビュー」

宮古島出身で琉球放送最高顧問の小禄邦男氏=5月14日、RBC

小禄邦男氏に聞く(RBC最高顧問)
県内放送界の風雲児
全国初の1局2波実現

本紙は1955年9月19日の創刊から70年の節目を迎える。その20年前の1935年9月20日に宮古島で生まれ、今も現役で琉球放送(RBC)の最高顧問として沖縄放送界の歩みを見守り続けているのが、今年90歳になる小禄邦男氏だ。47歳で同社社長に就任。全国ではじめてRBCと琉球朝日放送(QAB)の1局2波を実現させた功績と手腕は今も、語り継がれている。豊富な経験と人脈を生かして生涯現役を続ける小禄氏に本紙は特別インタビューを行った。

小禄氏は、平良下里出身で宮古高校6期卒。戦中戦後の動乱期を生きてきた。生まれ育った宮古島で過ごした時代に、最も印象に残っている思い出として、終戦後、疎開先の台湾から戻り、食料が少なく、秋に渡ってくるサシバを友人らと捕獲して食べ、生き抜いたことが強く印象に残っていると強調した。

1960年に早稲田大学に進学。東京生活で、街頭テレビに群がる人たちを見て衝撃を受け、放送業界への就職を決意。自ら選び、歩んできた人生の中で培ってきた経験と人脈を元に今もなお、沖縄マスコミ界だけでなく各方面に影響力を持ち続けている。

人生の最大の転機は、早稲田大学に進学し、放送業界を目指したことだという。
激動する時代の中で大学、仕事において幅広い経験と人脈を広げ、逆境と困難に向き合った人生を振り返りつつ、島の後輩に向けて「目立ちたがらずに謙虚さとまずは人のために」と呼び掛ける。
復帰後の沖縄の放送業界に大きな影響力を持ち続け、今もなお現役としてその経験と人脈を後輩たちに受け継ぐ日々を過ごしている。
そんな小禄氏に、人生において最も大切なことを聞くと「人脈」「人間性」「創造力」を挙げる。
日本を代表する多くの政界、財界人から多くを学び、愛されるその人柄は今も色あせない。
沖縄の放送界の風雲児として生涯現役を貫き、駆け抜け続ける今の思いを聞いた。

未来輝かすのは人脈
小禄邦男氏(琉球放送最高顧問)

逆境に立ち向かう姿勢や人脈、人間性、謙虚さの大切さを訴える小禄氏=5月14日、琉球放送

早稲田大進学が起点
学生生活で逆境克服

両親が学校の教員、叔父2人が医師という環境で育った。両親は医者になってほしいとの思いもあったが、私は文化系に進学しようと思っていた。さらに、どうしても東京の一流といわれる大学に進学することが当時の目標だった。
しかし、現役で目指す大学の受験には失敗。琉球大学には合格したが、東京の大学に進学する夢を諦め切れなかった。当時、早稲田大学の総長に沖縄出身(石垣島出身)の大濱信泉さんが就任したことにも大きな刺激を受けた。早稲田に進学したいという思いが強くなり、受験で挑み英文科に合格した。
入学してみると、当時の沖縄と全国の学力には大きな差を実感した。大学生活ではその溝を埋めるため、苦労の日々だった。
とにかく周囲に絶対負けまいとの思いで頑張った。宮古島という小さな島から何の情報も無く、挑んだ世界で逆境をはねのけることができた。その意味でも早稲田に進学したことは自分の人生で大きな転機となった。
人間、人生の中で逆境を経験して乗り越える必要がある。RBCの入社試験では今もそれを重要視している。甘やかされて育ってきたのではだめだね。

街頭テレビに衝撃受け
放送業界へ就職決める

早稲田に合格、上京して最も印象的で驚いたのは、街頭テレビだった。駅前やそば屋の前などにテレビがあって、そこにはたくさんの人がいた。何だろう?と思ったらプロレスの力道山。それとね、テレビのニュースがすごかった。
当時の宮古島にはテレビは普及していなかったので、あの光景はカルチャーショックだったし、大きな衝撃を受けた。これはもう、絶対にテレビ局に就職しようと思った。
大学卒業後の就職先については、東京のテレビ局を考えていたが、大学卒業時の1960年に琉球放送(テレビ)が開局の年だったことから、当時の東京支社長だった早稲田の先輩から誘いを受けて同社に入社した。
当時は300人が試験し合格したのはたった3人。東京の大学を出ているのは私だけだった。卒業試験前の3月に入社が決まり、6月にはTBSに派遣された。TBS内で連絡要員として2年半仕事をした。この期間、多くの人との出会いがあり人脈を培うことができた。
沖縄に帰ってからは、今度はRBCの株をニューヨークにある放送局が購入した。それに伴い、職員の派遣を求められ渡米した。
そこで1年半ほど過ごした。TBSでの経験もためになったが、アメリカはさらにスケールが違った。たくさんの刺激を受けて、多くのことを学ぶことができた。

苦難に挑み、恩人に学ぶ

40代で社長に就任
経験と人脈生かす

日本に戻ってきてからは、創業者だった当時の社長・座安盛徳さんが、とても重宝してくれた。これまでの経験で、放送局運営のノウハウを持つ私に対しては役員のような待遇だった。
出世のスピードもほかの社員より早く、30代で営業部長、40代で東京支社長になった。そして、47歳で社長になった。
これもすべて、早稲田大学に進学したことが最も大きかった。東京で多くの経験を積み、人脈を広げることが自分の人生の土台となった。
歴代のTBSの社長、会長が私をかわいがってくれたことで、さらに人脈は広がった。沖縄の青年でこうした経験をしたのはほとんどいなかったと思う。
TBSに派遣された時代にも、そこでやりとりした人たちが後の社長になっていった。マスコミの一番の財産は人との出会いだったと感じている。

経験と出会いで飛躍
恩人から学び生かす

私の人生で、恩人が3人いる。1人はRBC創業者の座安さん。私を採用してTBSに派遣したり、アメリカへ行かせたりと多くの経験をさせてもらった。この経験が自分の人生にとって、とても大きかった。
2人目がRBCの兄弟会社である沖縄タイムスの豊平良顕さん。当時は相談役で、私の仕事ぶり、人となりを見てくれて40代の私を社長に指名してくれた。
3人目が日本興業銀行の頭取だった中山素平さん。中山さんは当時の歴代総理を含めて、大きな影響力を持っていた。そんなすごい人から多くのことが学べた。
この3人が恩人であり、こうした人との出会いと、そこから培われる人脈こそ、人生にとって最も大切であるということを実感した。
ほかにも、日本の財界で活躍した人たちにも指導を受けた。特に京セラの稲盛和夫さんには長らく指導を仰いだ。
当時の稲盛さんからは「人間にとって大切なものはお金ではない。情熱でも知性でもない。それ以前に最も大切なのはものの考え方だ」と言われた。
自分がどういう方向に向かうのか、どういう人に会うか、どういう仕事に就いていくか。こういうものの考え方、総合力が一番大切で、それがしっかりしていれば人生勝てるということをいつも言っていた。稲盛さんには本当に勉強させられたし、かわいがってもらった。

島の後輩に「謙虚さ」訴え

全国で初めて1局2波を実現し、RBCの社屋の屋上のアンテナには「RBC」「QAB」の文字が掲げられている

1局2波の立役者に
全国初偉業成し遂げ

小禄氏は、1995年に全国で初めて一つのテレビ局が二つ(RBCとQAB)の系列の違う放送を行う1局2波を実現させた。
1980年代に入ると今の総務省は全国各県4局を打ち出した。「それを実現するにはどうするか。経営を踏ん張る必要にも迫られていたし、この難題についても、私がアメリカで学べたことが大きく役立った。さらに、それまでに培った人脈、信頼関係もとても役に立った」と話す。
しかし、当時は1局2波について、RBCのキー局であるTBSもQABのキー局のテレビ朝日も猛反対。それでも、小禄氏は説得に説得を重ねた。
「私がそれまでに培ってきたTBS経営陣との関係性もあって、その人脈を駆使することで説得することができた。それだけでなく、テレビ朝日との協議も東京での人脈を生かしながら何度も協議を行い、理解してもらった。これも人脈が成功のカギとなった」と振り返った。
さらに、県内民放の中で、RBCにはTBSの資本が入っていなかった。独自の資本だったことも1局2波の実現に大きな影響を与えた。
2005年に当時の平田嗣弘QAB社長は「この発想は小禄さんが『我々(RBC)が全責任を持つ。人も機器も金も出す』と、言ってくれた。とにかくこの発言がない限りは沖縄でこれ(1局2波)を実現することはなかったし、障害となる問題を小禄さんがクリアしてくれた。琉球朝日放送の創業者だ」と述べている。 

一番ニュースが重要
今後の放送界に期待

テレビ局は近年、大きく様変わりしてきた。SNS、動画配信、そして今はネットフリックスなど、さまざまな番組が入っている。視聴者は自分の見たいもの、好きなもので選択できる。放送はテレビ局だけじゃない。
しかし、その中で一番重要なのはニュースだと思う。報道番組。それには、膨大な資金も必要。やっぱりニュースがメインである限り、テレビは生き残れるんじゃないかと思う。
報道する側が物事に対しての知識もそうだが、ハングリー精神も必要。これからのマスコミはどうあるべきか、ニュースとどう向き合うか、報道する側の動機も重要だ。
最近の人たちは世の中の流れに頼ろうとする依頼心が強い感じも受ける。このハングリー精神とクリエイティブな感性と創造性、これが重要じゃないかな。

東急ホテル進出に尽力
五島社長との面談起点

復帰前の1965年か66年ごろ、TBSでの研修やアメリカから帰ってきた当時、那覇天久に琉球東急ホテル(復帰後・那覇東急ホテルに名称換え)があり、思いもよらない提案を受けた。
当時の専務が「うちの五島昇社長がね。沖縄に来るんだが、あんた沖縄の青年を代表して会ってみる気はないか」と言われ、お会いできる機会を得られるのであれば最高だとの思いだった。
面談が実現し、五島さんと30分くらい会食した。その時に五島さんが「宮古島をリゾート開発したいが宮古島に行ったことはない。できたら宮古島を案内してほしい」と依頼された。
希望に応えるべく、各方面に協力をお願いして、五島社長を宮古島に案内することになった。
しかし、五島さんは車に乗って島を見るのではなく「海から島を見たい」との要望を出されたが、当時はまだ復帰前で宮古にはサバニ程度しかなく、案内できるような船がなかった
しかし、米軍の軍司令官が中型のクルーザーを持っていて、各方面の協力を得て、それを貸してもらって案内した。
五島さんは前浜海岸に着くと、下着姿になって海に飛び込んで1時間も帰ってこない。ずっと砂浜を歩いて開発を決めた。
これが宮古島の東急リゾートのスタート。こうした経緯があるので、私は東急リゾートホテルのオープニングセレモニーにも招待された。こうした人脈と人とのつながりがいろいろなことを実現させてきた。

変化と成長見守りたい
生涯現役に意欲を示す

生涯現役を続ける中で、これからもっとも重要視することについては「1局2波で立ち上げたQABとRBCの今後を少しみていきたい。それからもう一つ。1985年に中山素平さんの紹介で女子プロゴルフの「ダイキンオーキッド」をスタートさせた。これまで38回実施してきた。毎年、東京と大阪などから財界人100人を呼んでいる。皆さん、沖縄を愛してくれている。この付き合い、人脈を「ダイキンオーキッド」の開催を通してしっかりと継続していきたいと思っている。
これからの人生は、ダイキンオーキッドと1局2波をどう変化させ、成長させるかを考えていきたい。

他者立てる謙虚さを
島の後輩に呼び掛け

宮古の人はとても能力がありますよ。ただ、ちょっと欠点もある。どうしても島の人は目立ちたがって常に人の前に出ようとする。それは駄目だね。人を立てる。
一歩も二歩も下がる謙虚さ。これができるのは人間性だと思う。自分のためじゃなくて、人のため。まずこれができれば宮古の人は勝てるね。これまで、宮古出身者の多くが島を出て各方面で素晴らしい活躍をしている。この謙虚さを身に備えた後輩たちはいくらでも伸びますよ。
(聞き手・垣花尚)

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