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70周年記念企画
2025年8月5日(火)0:56

宮古毎日新聞創刊70周年記念企画「山城博美氏インタビュー」

本紙の創刊 周年記念企画のインタビューに答える山城さん=浦添市の自宅

万国津梁の精神胸に 大海に未来を描く
山城博美さん(元琉球海運社長)

復帰直後から沖縄の海運界に身を置き、琉球海運では倒産から再建に至るまでの長期間にわたり、荒波を乗り越えてきた宮古島市出身の山城博美さん(76)。同社で社長、会長、相談役を歴任。海に未来を委ねた先人たちの「万国津梁」の精神を胸に、沖縄の物流の安定を担ってきた。物流による交易こそ平和の源と訴える山城さんに話を聞いた。

下里出身で。平良第一小学校、平良中を経て宮古高校へ。卒業後は国費で東北大学に進学。卒業後、1972年4月に琉球海運に入社。2008年に社長就任。16年から会長職。22年から2年間は相談役を務め昨年退任した。

華やかな社歴だが、実際に歩んできた歴史は波瀾(はらん)万丈だ。入社して4年目で社が倒産。社会人としては厳しい船出となった。
さらに、再建に至るまでには長い時間を要した。収益を確保するためにすべての所有船を貨客船から貨物船に切り替えて旅客事業から撤退。
物流に特化し、運航の合理化を進め、経営を安定させるのに約30年を要した。長く厳しい時代を乗り越えてからは、成長戦略へとかじを取り、会社の成長を支えてきた。

そんな現役時代を振り返っては「倒産した時に不安はあったが会社再生のために多くの人が私たちの会社のために頑張ってくれた。その姿を見て、この仕事は県民のために重要な役割を担っていると感じ、この会社で頑張る決意を固めた」と話す。今年は戦後80年目の節目。最近は、多くの不安要素が重なり、平和を維持することの大変さを社会全体が感じ始めている。山城さんは「世の中は交易によって栄える。資源のあるところから資源の無いところに送る。それで全体が豊かになり、幸せになる。奪い合ったりするから戦争になる。交易により新しい文化も歴史も生まれる。それを縁の下で支えるのが物流の仕事だ」と話した。

山城さんが心に刻む「万国津梁」の文字は「万国津梁の鐘」に記されている。その鐘が黒いのは、沖縄戦の戦火をくぐり抜けた際に焼け焦げ、多くの銃弾や砲弾などを受けた影響といわれている。万国津梁という言葉は「琉球王国は南の海にある島で、船を万国の架け橋にして貿易によって栄える国である」を意味している。(聞き手・垣花尚)

交易こそ、平和の源

「万国津梁」の精神の大切さと物流による交易こそ、平和を維持することにつながることを訴えた山城さん=6月19日、浦添市の自宅

入社4年後に
まさかの倒産

―高校卒業後は国費で東北大学に進学。激しい学生運動の時代に大学生活を送った。大学を卒業し1972年に琉球海運に入社した時の会社の雰囲気は、75年開催予定の沖縄海洋博に向けて所有船数を増やして船舶も大型化した。さらに、従来の東京、鹿児島、先島航路に加えて、大阪、博多をも開設して一気に経営拡大路線を目指していた。
しかし、この戦略が失敗。76年に会社更生法の適用を申請することになった―。当時は見込み通りの展開とはならず、海洋博で経営がおかしくなってしまった。また、建造した船は燃費も悪く、オイルショックがさらに状況を悪くした。まあ、長い目で見れば、オイルショックがなくても貨客船をやり続けていると、いずれは行き詰まったと思う。そのほかにも、復帰前のわれわれの世代は所得水準が低く、島外への移動手段は安価な船旅しかない時代だったが、本土復帰を境にして航空2社が沖縄路線を拡充してきた。
当時はだんだんと県民生活のレベルも上がってきていて、復帰後は飛行機による移動が庶民の手に届くようになってきた。その時の過剰な投資は、時代の趨勢(すうせい)をつかめなかったということだと思う。

倒産から再建に
至るまでの道のり

会社更生法を申し立てして、とりあえず生き延びることができた。当時は資金繰りが大変だったので、返すべき借金はいったん返さなくてもよくなり、資金繰りが楽になり、ある程度時間をかけて更生計画づくりに取り組むことができた。
更生計画とは、いったん棚上げした債務を長期間で分割返済することであり、その計画をつくり、裁判所の決定を得るまでは資金に余裕ができて、身軽になったことで借金の返済に猶予ができた。それから合計20年ほどで借金を完済した。倒産した当初、結婚して子どももいたので生活するために別の仕事を探した経緯もあるが、とにかく会社の再建に来てくれた人たちがすごかった。
管財人として弁護士、公庫や銀行から派遣された人たちが社長になったりして再建を頑張ってくれた。この人たちが非常に優秀だった。彼らは自分が倒産させたわけでもない会社のために一生懸命やってくれた。
その姿を見て自分の考えがどんどん変わっていった。会社を辞めなかったことはそれが大きい。それからは再建に向けて管財人たちの仕事を一生懸命手伝いながら、この会社でこれからも頑張る決意を固めていった。
今でも当時の管財人の人たちには頭が下がる。琉球海運は決してなくなってはいけないという県民の声があるから、みんな頑張ってくれたと思うし、債権者、行政、取引先の人たちの支援。その後ろには多くの県民の声や思いがあったと思う。
私にとって倒産から再建までの道のりは、いろいろな意味で自分自身の成長も含めて、とても良い経験をさせてもらった。再建作業の中で頑張ってくれた人たちは、私たちの二倍も三倍も働いていた。人のために仕事をするとは、こういうことなのかということを教えてもらった。

所有船舶の更新
貨客船から転換

―再建作業を進めながらも所有する船舶の更新をしていく必要に迫られていた。貨客船の維持か、貨物船に特化していくのかが課題となっていた―
本質的に更生計画適応して会社が良くなったわけではない。ただ、借金返済を先延ばししただけ。借金の返済は、95年には完済したが、完済のめどがつく中で90年ごろから現状の貨客船を維持したままの経営戦略では厳しいとの判断もあって、効率的な収益化を図るため、貨客船から貨物船に切り替えることになった。
所有船を貨客船から貨物船にすることは大きなメリットがあった。貨客船は貨物船に比べ燃料費、乗組員の人件費もかかるほか、初期投資を含めて約10億円増える。効率化を模索する中で、貨客船では厳しいとの判断となり、95年に最初の貨物船(RORO船)を導入。貨物に特化することで、建造費、乗組員の数が減らせたことから、経営は飛躍的に改善された。
建造費も抑えられ、貨物のスペースを確保できる。さらに、貨客船ほどのスピードも必要ない。燃料費も高騰する中で、効率化が図られた。
当時は、人口が増えてきたし、観光客もどんどん増加して荷物は増えていた。そうした流れもあり、今後の新造船の在り方はすべて貨物船に特化するにすることとなった、5隻の貨客船を貨物船への切り替えは1995年から始まり、ほぼ3年ごとに変えて2006年にすべてが貨物船に切り替わった。

近年、物流が大きく拡大していく中で、平良港もそれに対応。現在は、大型の貨物船(RORO船)が2隻並んで接岸できるようになっている平良港

貨物特化で
成長戦略へ

今から15年前ほど前の議論として、日本経済は少子高齢化という大きな課題に直面した。当時、まだ沖縄の人口は増えていたが、いずれは減る。
そのような社会情勢の中で、そうした課題とどう向き合っていくかの議論を行った。
人口減はマイナス成長を呼び込み、貨物の移動が減ることは自明であり、それならそれに合わせて、経営規模を縮小して(船の数を減らして)生き残るか。
一方で、攻めの戦略として成長しているマーケットを探して、それに触手を伸ばすという選択肢もあり、どちらにしようかということだった。
成長しているところに触手を伸ばすのであれば、すぐ近くにはアジアがある。そこには当然、既存の競争相手がいる訳だが、琉球海運の強みでもある沖縄の立地とRORO船の強みを生かして、42年前にやった経験もある台湾航路から始めようということになった。
これからの成長戦略をどうするのかについては過去の反省も生かしてリスクを念頭に置いて着実に進めた。
台湾航路については、ただ沖縄と台湾を結ぶだけじゃなく日本本土、台湾を経由して香港をはじめとする東南アジアへとつなげる。若い人口が増えていく場所の物流を担う。ある意味で沖縄が起点となる海の物流のハブ化を目指した。
例えば良い果物など日本の優れた農産物を日本の各生産地から香港などに、それぞれ出荷している。香港の業者からすればまとめて一緒に来てくれれば助かるし、輸送コストも軽減できるメリットもあり、そうした荷物を沖縄に集約してから運べれば一番いい。
われわれには、それを運ぶことができる条件がそろっている。そういうのをやらないといけないが、まだ実現していない。今後の課題だと思っている。

倉庫事業展開
課題を克服へ

―現在、琉球海運は沖縄本島や九州でも物流センターを運営している。陸上の倉庫を運営することで、よりスムーズな海上、陸上輸送が可能になり、台風時における物資不足を軽減させられることから宮古でもそうした物流センター機能を求める声が高まってきている―。
私も相談役をやめて1年だが、今も、宮古島における物流センターは必要だと思っている。実際にその計画はあって、すでに敷地も確保していたと思う。しかし、それには行政の支援も必要。島民の不便をなくすために、民間のわれわれは運ぶ仕事で、サンエーやイオンさんは販売。
島民に必要な物資を届けるために、それぞれに役割がある。
それをより効率的に行うためにも行政とも連携しながら、島内に物流センターを誕生させて安定物流のシステムを構築できればいいと思う。
台風だって毎年来ることは分かっているし、そのたびに不便な状況になっている。物流を安定供給できる環境をみんなで提供できるようなシステムを考えていくことが大切。

海運業目指す
後輩へエール

日本全体では若い船員が不足しているが、沖縄は宮古総合実業高校、沖縄水産高校から船員のなり手が入社してもらって本当に助かっていて、本土の海運会社が悩む人員不足も今のこところ無い。
さらに、地元の水産関係の卒業生は皆優秀だと本土の船会社も欲しがる人材が多い。そのおかげで、県内で優秀な若い船員を確保することができている。
船員の仕事は、通常の仕事と違って、いったん海に出ると、長く乗り続けて、港に戻ってから長く休むという不規則な印象だが、沖縄の場合は本土の船会社と違って、船の拠点が那覇となることから、乗船中に帰宅することも可能だし、最近は船もすごく機能が優れていて以前よりも過ごしやすくなっている。
ぜひ、これからも優秀な人材を輩出してもらえることを期待している。

宮古で過ごした
一番の思い出は

当時の島には何もなかった。テレビはもちろんテレビゲームとかそんなものも無い。だから、遊びに行くのは近くのパイナガマなどのビーチくらいだった。
また、当時は扇風機も家に一台しかなかった。家に帰ったらすぐに海水パンツに着替えてそのままパイナガマで遊んだ。
それくらいしか遊びはなかったと思う。今にして思うと逆ににすごいぜいたくな遊び。
東洋一のリゾート地の海で毎日、そして時間無制限で無料で泳いで遊んでいたことになる。
当時は「何も無い島」だったが、今では本土から何十万円もかけて宮古島に遊びに来て、その遊びを楽しんでいる。
「何もなかった」というよりも「すごい贅沢な遊びだったんだ」と、そう考えると感慨深いね。

沖縄における
海運業の未来

離島県の沖縄にとって先代の人たちは「万国津梁」の精神で海に活路を見いだして未来を描いた。その気持ちは海運業をやるものとして持っていたいし、そのつもりで台湾航路の再開も行った。
沖縄のような小さな島でどうやって生きていくか。当時は何も無い小さな島で、日本、韓国、中国、東南アジアのものを求めて動いた。
生意気と言われるかもしれないが、その知恵と勇気は見上げたものだと思っているし尊敬に値する。沖縄に生まれた人間の一人としてそれを誇りに思っている。
また、世の中は交易によって栄える。人間の社会で、すべてが自己完結できるわけはなくて、必ず何かが不足する。それを提供できるところから、足りないところに届ける。資源のあるところから資源の無いところに送る。
それでみんな全体が豊かになり、幸せになる。その原点が交易であり、そういう意味で私たちがやってきた仕事は、縁の下の力持ちと言われるがそれでいい。
交易により新しい文化も歴史も生まれていく。これを奪い合ったりするから戦争になったりする。
世の中全体が発展する素地であり、動脈となるのが交易。それを担う仕事は責任重大。それを成し遂げられれば誇らしい気持ちになる。
沖縄は小さな島で何も無いから、万国津梁の知恵を出してきた。島が小さければ小さいほど、広い海こそ味方であり、資源。それを活用しない手はない。
(聞き手・垣花尚)

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