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社会・全般
「いらぶ探検」身近にあった遺跡を訪ねて
伊良部高校遺跡探検隊・いらぶ探検隊
伊良部島の遺跡を訪ねることにより、古来の島の文化についての見識を深めようと二日、伊良部高校遺跡探検隊(福島新隊長)と、いらぶ探検隊(近角敏通隊長)の合同遺跡探訪が行われた。いらぶ探検隊は、これまで三十一回の島の探訪を果たし、前回から伊良部高校(玉津博克校長)も参加して今回二回目の合同探訪となった。この日は、平良から、宮古郷土史研究会の仲宗根將二さんや、市教育委員会の文化財担当砂辺和正係長、市史編纂室の職員、マスコミ関係者ら約二十人が参加した。
<ナーザクミャーカ>
今回は、伊良部元島に点在するミャーカ(巨石墓)や、霊石などの石造物を確認することが大きな目的。最初は、長山克さんの畑の一角にあるミャーカ。地元では、ナーザクミャーカと呼ばれている。五・八㍍×八・六㍍角の大きさで、高さが二㍍弱。最大一㍍角の大きさの切り石を組んだ見事なミャーカ。これまで特に文化財の指定もないことから、参加者からは、市か県の文化財に指定してほしいとの声もあがった。
文化財担当の砂辺さんは「八つの部屋があり、一族か、家族かはわからないが、集合墓と見られる。副葬品の焼き物は十七世紀後半のものが主体であるが、大正期の物まで混在している。長い間、使用されていたようだ。いつごろとは断定できないが、身分のある方の墓だと思われる。調査が急がれる」と話す。上面は一枚岩で覆われているが、中には崩れて中の人骨や碗(・わん・)なども多く見られた。
長山さんは「私の小さいころは木などは生えておらず、そのまま石組みの墓だった。土地改良事業で、地形がずいぶん変わった」と話す。元県教育委員会文化課にも勤め、首里城発掘や井戸跡などの調査も行ってきた玉津校長は「雑木が生え出すと石が崩れる可能性が大きい。やはり、早く指定して保護していく必要がある」とした。参加者は、手に鎌(かま)やのこぎりを持ち、生長したガジュマルやオオバギを切り倒した。
<霊石?>
この後、久貝恵福さんの畑の中にある霊石らしきものを確認に向かう。土地改良された畑の真ん中で、台座に乗せた小ぶりの霊石らしきものがあり、確定はできないが、野原の霊石の説明に「伊良部元島にもそれらしきものがある」ことが記載されおり、記述の正しいことを示した。当時の生活を知る長山さんは「昔は、この石に座って女の人が海を見ながら髪を梳(す)いていた」と話す。土地改良された畑からは古い青磁のかけらなども見つかり、参加者は、いにしえに思いを馳(は)せていた。
<スサビミャーカ>
最後は、伊良部町時代に文化財に指定された「スサビミャーカ」を訪ねた。ミャーカは、誰を葬ったかはさだかでないが、稲村賢敷によると「北九州や朝鮮半島の支石墓との関係が深いとして一五〇〇年前後の豊見親時代に造られた」とし、また、久松の巨石墓を調査した金子エリカは「中国青磁などの出土物から中国の福建省あたりから伝わり、十四世紀ごろ造られた」とする。(伊良部町文化財資料集より)
このミャーカは珍しく二層構造になっており、巨大な石灰岩の切り石を用いて石囲いを造り、その内部は複数の石室から構成され、各石室はテーブル珊瑚などの板石で覆われている。下段石囲いの中央部には二層目の石棺様の石室が作られ、これらの石材を加工するには金属製の器具が使用されたものと見られる。ミャーカは文化財に指定されているにもかかわらず雑草で覆われており、参加者全員で清掃することになった。炎天の中、全員で鎌を手に雑草を刈り取る。三十分で見事に全貌が現れ、労は報われた。
この日は、三十度を超す猛暑の中、島の遺跡を探訪。伊良部高校の探検隊、国仲捺都美・宮国由佳・福島新・福島樹季さんらは、初めて触れる文化財に、身近に先人たちを弔った遺跡があったことに感動し、これからも関心をはらっていきたいと、感想を述べていた。玉津校長は「石造文化は、八重山にはない。宮古特有のもので、沖縄本島とも若干異なっている。宮古島市全体の石造物を、貴重な遺跡として県か国の文化財に指定することが望まれる」と話した。