友利 修さん(50歳)国立音学大学准教授(平良西里出身)
人生は何とかなる
「自分のような人生を人には勧められない。でも何とかなる(笑)」と話す友利修さんは現在、国立(くにたち)音学大学で准教授として音楽学を教えている。「今の仕事もフランスにいたからこそ巡り会えた」と語る理由は3年前までフランスのストラスブール大学で教鞭をとっていたことが背景にあり、現在も頻繁に東京とフランスを行き来している。しかしそれだけではなく「音楽と言葉」を軸に学び働き、人生を楽しむことの延長線上に現在の職業もあるようだ。
宮古高校を卒業後、福岡の国立大学で音響設計を学び国立音学大学で修士課程を修了。大学の研究室助手を経て編集会社に就職した。ドイツ語や英語が堪能だった友利さんは辞書などの編集に携わる。当時は常にプロジェクトをかけもちし毎日深夜まで残業という激務をこなしていた。時はバブル。「過労死するかも」と思いつつも仕事も遊びも手を抜かなかった。「睡眠時間を削ってでも夜遊びはしました」と当時を振り返る。フレックスタイムという言葉が一般的でなかった頃に「自分で勝手に作ったんです」と笑う。人の三倍の仕事をこなして勤務時間を自己管理して良しという雰囲気を徐々に作っていった。一年後には全社でそのシステムが正式化された。コンピューター化も率先して行い他の部署と連携して仕事を作った。
当時、公私ともに充実していたが辞書という性質から「チーフで作っても自分の名前が出ずキャリアの積み重ねがない」と限界を感じるようになった。友利さんは背中を押されるように再度学びの道を選び 94年に渡仏。ストラスブール大学で音楽学を専攻し教えるまでになった。トントン拍子にも見えるが「最初の数年は泣きながら勉強しましたよ」と笑う。
またフランスは思いがけなく居心地の良い場所だった。「宮古と似てますよ。ファーストネームで呼び合うし人間関係もフランク」。 「自由じゃないことは嫌い」と語る友利さんの背骨には父の姿がある。結婚祝いの席で「私は自由を愛する人間です」と挨拶した言葉が心に残っているという。型にとらわれない友利さんの眼差しは故郷にも同じように注がれている。「宮古は日本も世界も同じように観察できる恵まれた場所。主体的に見出すことで世界が広がるはず」とエールを送った。
友利修(ともり・おさむ)
1958(昭和33年)11月27日に定雄さんと良子さんの一男一女の長男として旧平良市西里に生まれる。
平一小、平良中、宮古高校を卒業後、九州芸術工科大学芸術工学部(現九州大学芸術工学部)音響設計学科入学。
同校を卒業後、国立音学大学大学院修了。大学研究室助手を経て編集会社で辞書の編集に携わる。
94年渡仏。ストラスブール大学で音楽学を専攻。99年より同大学で非常勤講師として教鞭をとる。
06年に帰国し国立音学大学に准教授として赴任。ピアニストの典子さんと二人家族。(東京・菊地優子)