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社会・全般
恩師の言葉は時を越えて/與那覇 淳
ペン遊ペン楽2011.1.27
恩師の言葉は時を越えて/與那覇 淳
食事のときは残さず食べることを常としている。好き嫌いがないこともあって、何でもおいしくいただける。
中学までは、けっこう嫌いな食べ物も多く野菜はあまり好きではなかった。小学生のころ、母の実家で伯母にクダンソウ(キクニガナ)を食べさせられたことがあった。目を閉じて無理やり飲み込んだときの表情が、何ともおかしく哀れを誘ったようで、成人になるまで語り草になっていた。昭和30年代、宮古では自家用車の所有者が珍しかったころから、伯母はバイクや車を乗り回し豪快で存在感があった。客のもてなしも豪勢で、「遠慮して食べない人とはつきあえない」と言ってはばからなかった。そんな気丈な伯母が突然に他界して3年余が経った。いま思えば共に食卓を囲むような温かみのある交わりを求めていたのかなと、在りし日を偲んでいる。おおらかで器の大きな人柄とともに伯母の料理の味が思い出される。
「お米を作る農家の人の気持ちになって、一粒も残さず食べなさい」
小学校四年生のときの担任、垣花タケ先生の教えが色濃く残っている。当時、わが家の食卓の主食は芋だった。農家なので芋はあり余っていて、感謝の気持ちどころか、盆に積まれた芋が恨めしくさえ思えた。昭和40年代に入ってようやく米が食べられるようになると、いよいよ恩師の言葉が胸に迫ってきた。白い米が食べられる喜びも相まって、茶碗に盛られた銀飯をそれこそ一粒残らず食べるようになった。
一粒に感謝できるようになると、副食にも思いがいたるようになり、いつのまにか好き嫌いがなくなっていた。
丁寧に食する姿は卑しく映るのではないかと、ふと思うこともあるが、完食がすっかり習慣になった。刺身などのあしらいとして添える野菜や海草などの具を残す人は多い。具もすべて食べつくすことには、さすがに抵抗があって、和食の料理人にたずねたことがある。「食べられないものは盛らないので、すべて食べてもらいたい」と料理人はこたえた。それから刺身の具もほとんど残さない。福岡に嫁いでいる娘が帰省した際、食事するのを何気なく見ていると、娘がお茶碗の最後の一粒まで丁寧に口に運んでいた。米一粒に込めた思いの連鎖が確認できたようでうれしくなった。
飽食の時代といわれ豊かな食事に恵まれているが、世界に目を転じると、地球上の飢餓人口は9億人。毎年、約1億人の子どもたちが5歳の誕生日を迎えられずに亡くなっているという。
この食の問題について自分にできることは何だろう。世界食糧デーの関連イベントに関心を寄せること。「買いすぎない」「作りすぎない」ことは少し意識するだけで出来るかもしれない。
でも、日々こんなことを考えて食事をしているわけではない。お米を一粒残さず食べるのは、ただ、食い意地が張っているだけかもしれない。このごろメタボが気になって仕方ないのだ。
(宮古ペンクラブ会員)