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美ぎスマ
2018年9月29日(土)8:54

【美ぎスマ】大浦多志中国から渡来/平良地区・大浦集落

 14世紀の初めごろ兄妹が、戦に明け暮れる中国の福州から船で逃れ宮古島に着いた(宮国トヨ子さんの話など参考)。兄の宮古での名前は大浦多志(うぷらだす)。島を見て回った時、大浦に肥沃な土地と豊富な湧き水があることを知り、定住を決めた。大浦多志は原野を切り拓き作物を立派に育て集落の主長を務め地域発展に尽くした。大浦は御嶽信仰にあつい里で10年前まで、年間に30回以上の御嶽ニガイ(神行事)が行われていた。「うぷらだす」は集落南のフギ嶺のワービヌ御嶽(上のウタキ)に村の最高神として祭られている。産業は農業が中心で、かつては「米所」だった。現在はサトウキビ畑が青々と広がる。8月末現在の人口は135人(男性78人、女性人)、世帯数は88戸。大浦も他の集落同様に少子高齢化が進んでいる。

大浦発展に尽くす/大里さん、川満さん歴史や生活語る


大浦集落一帯の風景

大浦集落一帯の風景

 大浦では大浦多志を主人公にした「唐人渡来のあやぐ」が、古くから謡い継がれてきた。船には布や糸巻、瓶、筵(むしろ)、枕などを積んできたと謡い、家財道具を急ぎ携えて戦乱から逃れて来た光景が浮かぶ。
 家を建てた場所は集落南の「フギ嶺の森」。「島を広げ名を上げた」と謡った。一方、「邑主になり城を多志の地に築き居住す」と書く史書がある。

 大浦の歴史に詳しい大里正行さん(87)は「最初はフギ嶺に住み、後に城を築いたのでは」と推測。郷土史家・下地和宏さんは生活痕を根拠に「大浦多志城は集落後方の山にあったと思われる」と話した。城の規模は長さ約127㍍、幅約60㍍と大きかった。

 多志が「大浦多志城」に住んでいたころ(1350年代)は、与那覇原軍が猛威を振るい各地の城を攻め落としていた。多志も与那覇原軍に敗れ配下の住民は離散したとされる。

 多志城跡の麓にはウイバラガーとイザガーがある。ウイバラガーは藪(やぶ)に覆われているが、今でも「上の山」から水が湧き出ている。川満治男大浦自治会長(66)は「子供のころはウイバラガーの池で泳いで遊んだ」と懐かしんだ。両井戸のある所は「ウプナーバリ」と呼ぶ。

 県道狩俣線沿いの「満月食堂」北側の「クールフ」と、古い集落跡とされる「ヤスキバリ」近くには「イ●(●=スに○)ヌカー」と「トーガー」がある。「唐川(トーガー)」は水滴を振り落としながら飛び立つ鳥を見た唐(中国)人が見つけたので、そう名付けたという。大里さんは「水の便の良い所に人は住む。昔の大浦には小集落が点在していたのでは」と話した。

 宮国トヨ子さん(89)は32年間サス(神役)を務めた。主に多志の妹「マジュルンマ」の役を務めた。「多志は妹と来たそうだ」と話した。多志が宮古島に着いたのが旧暦の5月。その月には故郷中国に向かって手を合わせ、子孫繁栄や五穀豊穣などを願う「リュウグウウガン」を行っていた。年間の御嶽ニガイは30回以上、延べ日数は40日以上。男女合わせて約20人いたサスは徐々に引退し、最後に残っていた5人も2008年に全員辞め、御嶽ニガイは途絶えた。

 多志城の落城から約350年経った1714年、琉球王府は離散していた住民らを集め「大浦村」を創建した。人頭税制のころだった。

 「唐人渡来のあやぐ」では「田原田を(中略)見つけ ヨイ(囃子)」とも謡った。集落東部の窪地を「田原」という。田原では古くから水田稲作が行われていたので、そう謡ったのであろう。川満自治会長の父も彼が小学生のころまで、米を作っていた。「米は換金作物だったので、たまにしか食べなかった。普段は自家産のイモや野菜、海の幸などを食べる自給自足的な生活だった」と話した。

 参考文献(在沖西辺郷友会結成50周年記念誌「融和・親睦・団結」)

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