2011年5月25日(水) 23:15

東平安名崎/下地 和宏

ペン遊ペン楽2011.5.26


 小学生の頃、城辺出身の農高の先生がわが家に下宿していた。多分、宮古の昔話を調べることが宿題だったように思う。先生から教えてもらった。「マムヤの物語」であった。行ったこともない東平安名崎が舞台であった。後の学習もからむが、「マムヤの墓」と「機織場」は記憶に残る。



 その後、親父と東平安名崎に初めて行った。どのような理由で行ったのか、記憶をたどれない。あの長い道程を二人で歩いたことだけが鮮明に残っている。墓や機織場を見たのかさえも覚えていない。


 宮古に関心を持つようになって、最果ての地、東平安名崎は興味ある地の一つとなった。市民の誰も疑問を抱くように、二つの平安名崎にいつから東と西が付された呼び方に変わったのか。地元の人々は「ピャウナザキ」で通用していたはずなのに。


 『平良市史』第3巻に「宮古八重山両島絵図帳」(1647年)の資料が収録されている。「島長七里十二町は、おろか間切百名崎より、北かりまた間切ひゃんな崎迄」とある。「百名崎」と「ひゃんな崎」を記した古い資料の一つである。


 その後、『琉球国絵図史料集第一集』が県教育委員会から刊行された。その中に「正保国絵図」(1644年)がある。地図上にも「百名崎」、「ひゃんな崎」と記されている。当時、地図を作成した役人は「百名崎」をどのように聞いたのだろうか。百は方音ではピャークと思うのだが。北の「ひゃんな」とは違う方音だったのだろうか。


 大正10年測量、大正12年発行の宮古郡島地図がある。欄外上に「沖縄県 琉球国 宮古郡」と記されている。日本軍によって測量されたものらしい。この地図には「東平安名岬」、「西平安名崎」とルビが付けられている。地元では東と西を付して使い分けていたのだろうか。それとも、地図作成者が便宜的に付したのだろうか。


 明治44年4月10日付の琉球新報の記事が『平良市史』第10巻上に収録されている。「通信子」による記事だ。「砂川尋常小学校にては学年末調査も終へたればとて四百名近き健児、職員引率の下に宮古の東端なる東平安名岬迄遠足を試みたり」で始まる記事である。通信子は東平安名岬と言っているが、東を付した呼び方は一般的になっていたのだろうか。それとも通信子による表現なのだろうか。資料不足のため何とも言い難い。


 通信子の記事には興味ある個所もある。「此岬の東端に高さ三丈、巾四丈許の巨石北向にして横はれり。これ百年前傾国の美人とて有名なりしマモヤの墓なりという。目下棺と遺骨とは残れり」と観察している。明治期末には棺と遺骨は残っていたという。マムヤの骨であるかどうかは別にしても、その後どうなったのであろうか。気になる記事だ。


 ピャウナ崎については、海に長く突き出したその形状がパウ(蛇)に似ていることから付けられた名称だとする考えもある。
 市教育委員会刊行の『国指定名勝「東平安名崎」保存管理計画策定報告書』がある。それによれば、自生種を脅かすかのように、外来種が増えているという。この状況を危惧したのか「名勝『東平安名崎』として自然の姿を維持するため、外来種の除去が望ましい」と警鐘を打ち鳴らしている。東平安名崎は全国共有の財産の一つであることを再認識することが求められているのであろう。
 (宮古ペンクラブ会員・宮古郷土史研究会会員)

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