2012年3月19日(月) 23:24

「尖閣列島遭難事件」(行雲流水)

 『沖縄懸史』(第10巻、沖縄戦の記録)に「尖閣列島遭難事件」にまつわる故下地博氏の遭難記が掲載されている



▼1945(昭和20)年6月30日、石垣島から台湾に疎開するため、200人近い住民を乗せた2隻の疎開船が出航したが、尖閣列島近海で1隻は米軍機の銃撃を受けて火災をおこして沈没、あとの1隻は機関故障で航行不能となったが、乗組員の必死の努力で修理され、海中から救助された人々も乗せて魚釣島に漂着する。しかし、やがて食糧も底をつき、餓死者も出るなど、悲惨な約50日間の無人島生活で、およそ半分の人が命を落とした


▼疎開船が台湾に向かったのは組織的な沖縄戦が終わった後であり、戦争体制に翻弄されて過酷な状況に追い込まれた遭難者たちが哀れである


▼氏は最初、伯父夫婦と石垣へ疎開するが、戦況を恐れて、さらに石垣の疎開者と一緒に台湾に向かい、この遭難に遭った


▼氏は語っている。「丸太にすがりついている人の手が次々に離れていった」、「3、4時間も漂流していると寒くてガタガタ震えていた」、「栄養失調で頭髪が抜け始めた」、「あと一月この状態が続けば、人が人を食ったのではないか」


▼ところで、故下地博氏の告別式の祭壇には野球帽姿の遺影があった。宮古の野球の発展に献身的に尽くし、偉大な功績を残した氏にふさわしいと、誰もが思い、温厚で誠実な人柄をしのんだ。遭難で九死に一生を得た氏の戦後の活躍は、人の生きることの素晴らしさと平和の尊さを雄弁に物語っている。