2012年5月25日(金) 23:11

ふるさと(2)/渡久山 春英

私見公論 31


 「イッヒ ハーベ アイネ ファッテル ウントゥ アイネ ムッテル」。直訳すると「アイ ハブ ア ファーザー アンド ア マザー」となる。ばかの一つ覚えである。今、外国語のブームだそうだ。小学校にも英語が必修科目になっていることは実にうらやましい。また高校生の太平洋島サミットが宮古島に開催されることは歴史的な出来事だ。母国語を世界へ発信する絶好の機会である。最近マイケル・サンデルというハーバード大学の教授が、いくつかの国の大学生を相手に、時事問題をとりあげて討論していた。そのときの同時通訳の的確な日本語がわかりやすく、テレビに吸い込まれるのであった。日本(宮古)の子供たちがグローバル化に備えて、語学の基礎を身につけることは隔世の感がある。さあ、高校生太平洋島サミットに参加する皆さんを激励しよう。



 1960年、多良間村の水納島にいた。ある日のこと、ヘリコプターが何の前触れもなく着陸した。学校の授業中であった。子供たちは外へ飛び出した。島の人たちも歩ける人は集まった。漁師も島の異常に気付き、海から引き上げてきた。赤銅色の体にふんどし姿で、手に手にモリを持っていた。モリは漁師の七つ道具の一つである。水納島には悪い人はいない。ヘリコプターを目の前で見るのは初めてだ。


 ヘリコプターの乗員は、宮古民政府のローズ代行官とパイロットの2人だけであった。区長さんは私を呼んで代行官の前へ突き出した。人々の目を一身に浴びる瞬間であった。私はおそるおそるふるえながら、代行官を見上げて立った。代行官は何やらしゃべっている。私は何が何やらさっぱりわからないまま、勇気をふりしぼって「アイ キャン ノット スピーク イングリッシュ」と言ってしまった。ばかの一つ覚えだ。すると代行官は「グッド グッド」と白い歯を見せながら頭を撫でてくれた。くやしかった。しかし、神の助けか、帰省中の大学で英語を専攻している「新垣武夫」氏が来た。私の心臓は正常にもどった。52年前のことである。英会話の勉強がしたい。水納島の皆さんはふるさとを離れ、集団移住して「高野集落」を構築して、漁師の七つ道具を農耕の農具に変えた。50年経った今、暮らしもよくなり篤農家でいらっしゃる。


 太平洋戦争に負けた日本はアメリカのマッカーサーの言いなりになった。軍国主義の復活は断たれ憲法を変えたのである。一方的に英語教育を押しつけはしなかった。6・3・3制の学校制度は文部省の教育課程であった。沖縄県はアメリカの統治下におかれた27年間だった。沖縄県も一方的にアメリカの教育制度ではなかった。宮古にもアメリカ民政府が統治していたけれども、特別に英会話の雰囲気ではなかった。特別にあったのは悪名の「方言礼」であった。だれが発言したか知らないが、共通語以外は使用禁止であった。意図するところはわかるけれども、悔やまれるのは英会話励行を叫んでほしかった。そうすれば前述の代行官とのやりとりも恥をかかずにすんだのに…。旧日本の侵略政策は台湾の人たちに日本語教育を徹底したことだそうだ。


 冒頭の外国語を日本語に訳してみよう。沖縄県は「島言葉」を奨励しているから、沖縄語にも訳してみよう。宮古語・八重山語・与那国語にも挑戦してみよう。水納島の言葉は多良間語である。多良間語には「サ」音はない。たとえば、サバニ(シャバニ)、月桃(シャニン)、酒(シャキ)、草(フシャ)などである。また、自分より年上の人にはかならず「ワーリ」を言って敬意を表さねばならない。食べてください(ンカギ ワーリ)。冒頭の外国語を多良間語に訳してみよう。「アンヤ ウヤ マイ アンナ マイ ワー。リ ドゥス」