2013年9月26日(木) 9:00

声/仲間 健

2013.9.26 ペン遊ペン楽


 真夜中に満ちる静寂を意識したのはいつの頃からだろう? 耳を塞ぐ手の平から零れ落ちる夜のこえ。何度も何度も確かめるのに、それは確かに在って、うねりのように鳴りひびく沈黙の叫び。


 -そうして周波数がカチリと合うと、やがて始まる『想像ラジオ』。いとうせいこうのそんな小説を久方ぶりに読んだ。主人公は高い杉の上に引っかかって夜の向こうから呼びかけている。マイクもスタジオもラジオ局も無い、ただ貴方の想像力を頼りとして声をのせる。明るい口調で語ってはいるが流れる曲が物語る最初の『デイドリームビリーバー』はきっとまた会えると、白昼夢を信じる男の歌。続く3曲目はボサノバの『三月の水』。


 そう彼は3・11の人である。何度もDJトークを繰り返しながら、その声を聴きたいと妻と息子に呼びかける。応えるリスナーたちもまた波に呑まれたら3・11の人たちである。


 「あなたに話しかける他、私は私がいると確信できません」、深い真っ暗闇に沈みながらリスナーの彼女が言い、建物から出られないリスナーの彼が、ラジオに導かれて水面の向こうに手を伸ばす。弔いの小説なのではあるが、重さより痛みと切なさが胸をうつ。耳鳴りのようにかすかに、けれどしっかりと貴方に寄り添う想像ラジオ。


 死者の声に思いを馳せる『私』にボランティア同士の会話がかぶさる。生きている人のことを第一に考えなくちゃいけない。傷を負ったその心の領域に無関係の者が土足で入りこんではいけない。お前たちには帰る場所があるのだろうと、汗を流してなお叩かれるボランティアに、その立ち位置の厳しさを思う。


 けれど別の声が言う。亡くなった人が無言であの世へ行ったと思うなよと。そのくやしさ、その悲しさ、心残りを考えることも大事じゃないのか-行動と同時にその声を拾うこと。


 あのとき、流れるTVに本当に違和感を感じた。つながろうという謳い文句に、決して亡くなった人を映さないニュースの数々。むしろ死者は遠ざけられたしまって、思ったよりも早くTVは日常を取り戻した。作者が問う。いつからこの国は死者を抱きしめていることができなくなったのかと。僕は、何ができるかより、何に加担しないかを考えた。(僕自身を含めて)起こったことに対して人は忘れやすいということを忘れないと思うこと。


 声を聴くこと。


 人は亡くなったらどこへ行くんだろう? 別の本でそんな会話があった。舟に乗って親しい人の記憶の中へ流れていく。だから人は夢を見る、夢の中で再会する。忘れない限り会いたい人の中で生きていく-悪くないと思った。

 想像ラジオ
 聴けるものなら