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ペン遊・ペン楽
2013年10月24日(木)9:00

40年の時を越えて/與那覇 淳

2013.10.24 ペン遊ペン楽

「お会いしに宮古島に行きます。」
携帯電話にメールが届いたのは、夏の盛りの6月のこと。ペンフレンドからのメールは嬉しい戸惑いであった。あまりの嬉しさを隠しきれず、周りの友人らに自慢げに40年ぶりの再会を言いふらした。そして、いよいよ心待ちにしていた日。空港の到着ロビーでその時を待った。

 40年ぶりに再会する相手は、中学時代からのペンフレンド。沖縄と本土を結ぶ豆記者交流が縁で文通が始まった。当時、沖縄は米国の施政権下に置かれていた。東京の中学校で新聞部活動に熱心であった先生たちの発想によって、本土と沖縄を結ぶ青少年の友情の輪を育むことを目的に生まれたのが「本土・沖縄豆記者交歓事業」であった。この事業は昭和37年に始まり今日まで50年も続いている。今年も宮古の10人の小中学生が沖縄豆記者団に加わって国会議事堂や東宮御所、世田谷区役所、北方領土や納沙布岬、北海道庁舎などを取材している。

 私が中学1年の頃、群馬県桐生市の菱中学校の豆記者が私の母校である鏡原中学校に訪れたことは今でも鮮明に覚えている。初めて会う本土の色白の生徒らが、白色の法被をまとい演じた「八木節」は、そのリズムまでがしっかりと記憶のひだに織り込まれている。その後、中学2年の頃、菱中学校からクラス全員に葉書が届いた。その一枚の葉書がきっかけとなって文通が始まった。中学、高校と文通が続き、私は高校卒業後に上京。そして、1週間後に琉球工芸の「抱ち瓶」を土産に群馬県桐生市のペンフレンドを訪ねた。生まれて初めての五右衛門風呂、南国生まれを気遣って急きょ準備してくれた夜着・かいまきは着物の形をした大形の掛け布団で、その感触は今でも脳裏に刻まれている。あれから、40年の月日が流れた。

 予定の便の到着を知らせる電光掲示板に一気に胸の高鳴りが増した。到着する一人一人の顔を覗き込むが見つからない。頼りになるのはこれまで数回交わした写真の記憶だけだ。夫婦で宮古入りするのは事前の電話で分かっていた。そのうち、それらしき夫婦がロビーに現れ、どちらからともなく声掛け合って、ついに40年ぶりの再会が現実のものとなった。

 島の観光めぐりを終えて夜は夕食を兼ねて民謡ライブ居酒屋で過ごした。その日はちょうど高校同期の歌手の舞台で、彼女は舞台上から私たちの40年ぶりの再会を紹介してくれた。

 翌日、宮古を離れる夫妻と空港で別れのティータイムでは話がつきない。再会を約束して搭乗待合室へ消えていく二人の背中を見送ると一抹の寂しさに襲われた。一泊二日の短い時間でしたが生きることの年輪を感じさせる尊いひとときであった。長く生きることによって生まれる心のひだには、深い情愛や人情の機微が刷り込まれていて、その人の人生を豊かに彩っているかもしれない。

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