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2017年11月16日(木) 9:02

【行雲流水】(告別式)

 今は昔の話。面識のあった大先輩が50代で他界され、告別式が大里村の自宅で執り行われた。当時(昭和40年代)は、最寄りのバス停から徒歩で小1時間もかかる片田舎だった



▼告別式には間に合ったが、ご遺族や参列者に顔見知りは1人もいない。大先輩への義理を果たしたことを認めてくれたのは遺影だけだった


▼真夏の白い道をテクテク歩いて帰りながら、なぜかむなしさを覚えた。告別式への参列は故人のためと思っていたが、実際は、生きている人(遺族や自分)のためではないのか。だが、人情の機微にふれる疑問を口にすることははばかられ、胸の奥にしまっておいた


▼「死者に対する義理のために働くという道徳は、儒教的な武士道が確立した徳川時代以降だ」(司馬遼太郎『関ヶ原』)との著述に接し、パンドラの箱が開いた。道徳律は「儀式」となって表れる。「告別式」の変遷がわかれば疑問が解けるかも


▼調べてみると、葬式とは別に告別式を営むようになったのは明治末からだという。さらに現代の告別式は、葬儀と同時並行で行われるのが一般的になっている。故人への「惜別」と遺族への「お悔やみ」の二つの儀式を合体したのが現代版「告別式」だ。故人と面識がなくても、遺族と交流があれば参列する。逆もまた可なり、だ


▼有名な故人の場合、葬儀は身内だけで済ませて、後日「お別れ会」を催す背景もわかった。由来や理由や原因を「知っている」と「知らない」とでは、世の中の見え方がちがう。農業や経済などの生活基盤についても同様かも。