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私見公論
2017年7月14日(金)9:02

【私見公論】戦争遺跡の調査を通して/久貝 弥嗣

 1945(昭和20)年に、太平洋戦争が終結してから今年で72年目をむかえる。戦争体験者の高齢化とともに、戦争の記憶の風化が危惧されている。



 考古学では、さまざまな時代や道具(土器など)の専門分野があるが、その中の一つに戦跡考古学という分野がある。現在の沖縄考古学会の会長を務める當眞嗣一氏が初めて提唱された考古学の分野で、「第2次世界大戦末期の沖縄戦関係の遺品や遺留品などを資料として住民を巻き込んだ沖縄戦の実相を考古学的手法で調査研究する分野」と定義づけている。沖縄戦の実相を考古学的手法で調査研究する分野とあるが、具体的にはどの様な調査を行って、何を明らかにしていくのか、そして何を導き出していくのか、なかなか難しい問いかけでもある。


 私が、初めて戦争遺跡の調査に参加したのは、大学2年生の頃である。琉球大学は、1992(平成4)年より南風原町の沖縄陸軍病院南風原壕の調査を行っており、毎年夏休み期間の2~3週間は、測量や発掘作業などの実習を行うことが恒例になっていた。沖縄陸軍病院南風原壕は、戦争遺跡として国内で初めて文化財指定(南風原町)を受けた遺跡であり、大学の時から、このような現場に関わることができたのは、今思えば大変に幸運なことであったが、当時は暑くて、きつい現場であったという思い出しかない。


 私が、本格的に戦争遺跡の調査研究を行うようになったきっかけは、2012(平成24)年に発掘調査を行った長南陣地壕である。この壕には、70年近い年月が過ぎていたにも関わらず、当時の柱や梁などの木材が全く当時のまま残されており、初めて見たときとてもとても感動したことを覚えている。さらに、この壕についての聞き取り調査を行っていく中で、新たな壕の情報が得られ、探索を行ったところ、全長が300㍍近くにもおよぶ西更竹司令部壕を確認するにいたった。これらの調査を通して、自分自身がどれだけ宮古島での戦争のことについて無知であったかを思い知らされた。しかし、同時に戦史資料や体験談、聞き取り調査を通して明らかにされていく戦跡考古学という分野への関心が一気に高まった。


 6~8月にかけては、戦争遺跡の巡検などが多く行われる。実際に壕を訪れた人ならば、その壕の大きさや構造に少なからず感嘆の声をあげたこともあると思う。それは私も同様である。しかし、決して忘れてならないことがある。それは、全ての戦争遺跡が、当時の戦争と直結していることである。砲台跡には、大砲が据えられ、機関銃の銃眼が見据える先には敵の兵隊がいる。そして、住民が避難した自然の洞窟も、空から打ち下ろされる機銃掃射や爆撃の恐怖を感じながらその中に逃げ込んだことが想像できる。言い換えるならば、人の命を奪う、または命を守るための目的が、それぞれの戦争遺跡にはあるといえる。


 なぜ、考古学という分野で、たった70年前の出来事を調査対象にするのか、なんのために戦争遺跡の場所や構造を調査、記録していく必要があるのか。その答えが、戦争遺跡の定義にあることに気付かされる思いである。戦争遺跡は、確かに人を惹きつける力をもっている。私自身、戦争遺跡の調査で探していた壕がみつかると、それだけで気持ちもたかまり、その壕の規模が大きければ大きいほど達成感も強くなる。しかし、壕を見つけ、位置を記したり、写真撮影を行ったり、壕の測量を行うだけでは、その壕の実相はみえてこない。体験談や、聞き取り調査、戦史資料の読み込み、専門家の指導を受けるなどして、その壕の歴史的な背景を調べ上げていくことができ、その壕の目的の意味を知ることができる。そして、調査、研究で知り得た情報を、記録として未来へ残していくことが、専門員、郷土史の研究者の仕事であるといえる。極論すると、戦争遺跡の劣化をくい止める方法はない。だからこそ、調査、研究が必要であり、記録を残していくこと、伝えていくことが、未来の平和の一助になるものと考える。
(宮古郷土史研究会会員)

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