地域の愛に包まれて大人になった僕の夢(2)/濱元 雅浩
私見公論61
社会に出て20年弱、40歳を間近に控えて、それなりに大人びてきたつもりの僕に「パパは大きくなったら何になるの?」と小2の息子。「そうだなぁ、まだ考え中」と答える僕。ほのぼのとした散歩風景ではあるが、この子の目に僕はどう映っているのか少々不安も。ということで、威厳のある父を目指して今回は「学び」について考えてみることに。
僕は学校が嫌いなほうではなかったので、それなりに小中学校に通い基礎的な学びを得た。とはいえ、特別に学業が好きなわけでも無かったので、その後はフワフワと沖縄、東京、札幌と移り住み、いろいろな方と出会うことで、なんとなく社会というものを学んだ、気になっていた。しかし実際にはただの観光か放浪程度のことであって、30歳を過ぎて宮古に戻り、青年会議所に入会した頃から本気で「学ぶ」必要に迫られた。つまり、僕が本気で学習を始めたのは二児の父になった、つい最近のこと。
それでも最近は「生涯学習」という言葉が日常的に使われるようになってことで、フラフラと大人になった僕にも「学び」のチャンスは多く存在する。ここぞとばかり仕事そっちのけでいろいろな場に出向く。そこでお決まりのように「もっと早くからやっておけば」と思うのだが、当然のようにあとの祭り。というよりも、大人になってから初めて「学び」の大切さに気付くものなのだろう、と開き直り多くの学びを得ることを楽しんでいる若干40歳。こんなんだから息子に「大きくなったら何になる?」と聞かれるのだろう。それはさておき、宮古島でももっと「大人でも学べる機会」を充実させることが必要だろう。
大人になって学ぶ社会の課題には、テストのように唯一の「正解」というものがないことに気付く。つまり社会には「正しい答え」というものはそれほど多く存在していない。意見の違いそれぞれが話し合いなどを通して、みんなが「納得のいく答え」を探し出すことが、解決策として求められる。「正解」ではなく「納得解」。それを引き出すためには、知識に加えてコミュニケーション能力が重要となる。もちろん、これは大人だけに言えることではない。子供たちも同じ社会に生きているのだから、同じように「正解」を求めるテクニックだけではなく、「納得解」を導くコミュニケーション力が必要になるだろう。
僕が子どもの頃は「正解」を探す訓練として学業が設定されていた。まあ、その時代はそれで良かったのだろうが、21世紀を迎え世界とつながる機会が格段に増え、価値観の多様化が進む今、唯一の「正解」を求める教育だけでいいのだろうか、と疑問を感じる。僕をはじめ多くの大人が、独学で、自力で身に付けようと必死に学んでいるコミュニケーション力を、小中学校で積極的に鍛えていくことが必要だろうと、最近はつくづく思う。
コミュニケーション力とは自分の意見を表明し、相手の意見を理解する。だけに止まらない。自分の生い立ちを伝えられるように郷土の歴史や文化、産業のことを知る必要があり、自分以外の多くの人の歴史を受け入れることも大切となる。この能力を小中の6年間で習得できれば、子供たちの世界は飛躍的に広がっていくだろう。
とはいえ、コミュニケーション力の学習を学校に押し付けて、ただでさえ忙しい教員の手を煩わせようというつもりではない。地域の大人たちが積極的に児童学習に関わることで、コミュニケーション力は向上していくものだし、子供たちが地域社会を理解することも進むだろう。小中学校統廃合が検討されている今だからこそ、文科省が進めるコミュニティー・スクール制度などを活用して、地域と学校の垣根を取り払い、教師に任せるだけではなく、地域全体で育成の責任を分担共有する学校のあり方を考え、チャレンジするときなのではないだろうか。そのために、コミュニティー・スクールとは何かを知る機会(フォーラムや何やら)を開きたいと現在思案中。その際は皆さまお越しくださいね。