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宮古の事業家・下地米一の生涯
2013年11月17日(日)9:00

宮古の事業家・下地米一の生涯④.

宮古のブルドーザー発進

◆経済界からの立候補


1986(昭和61)年7月13日、平良市長選で初当選を果たした下地米一

1986(昭和61)年7月13日、平良市長選で初当選を果たした下地米一

下地米一が旧平良市(現宮古島市)市長選に立候補したのは、64歳のときであった。「宮古島は強力なリーダーを欲していた」と語るのは、当時の宮古保守系議員連絡協議会会長の内間武雄である。沖縄県知事の西銘順治や元平良市長の真栄城徳松の強力な推薦、宮古保守系議員団の重鎮であった狩俣恵典や内間の支持があって、保守陣営の候補は米一に一本化されていった。いったんは、「このまま経済人としての立場から郷土の発展につくしたい」と断った米一だったが、西銘知事や内間ら議員団の「沖縄県内建設業上位の企業を育てあげてきた手腕を、市政の場で発揮してほしい。経営感覚を身につけた人でなければ、宮古郡の展望を拓くことができない」との説得に腹をくくった。
出馬を決意した米一は、有権者の前に立った。景気が低迷し、国や県からの予算獲得もとどこおり、必要な公共事業もままならない経済状況を、まず指摘。そして、「平良市の発展と市民の幸福のためなら、総理大臣や県知事の前に土下座してでも」状況を打開し、経済を活性化させる覚悟を表明したのだ。1986(昭和61)年7月13日、米一は革新系現職の伊波幸夫を破り、初当選を果たした。

◆新市長のスピード

平良市長としての米一は、最初から型破りだった。議会の初日、議会場に入ると、ひな壇のいちばん上にある議長席が自分の席だと勘違いして笑いを誘うと、表情をガラリと変えて地下ダムの早期実現を宣言。次の日の午前中には、那覇に飛んで地下ダム建設の要請団と合流。翌々日には、東京で農林水産省や沖縄開発庁をはじめ関係各省庁の次官らと会って、初の要請を行ったのだ。そして宮古に帰ると、自前のオートバイで次々と現場をまわり、関係者の話を聞きはじめた。そのエネルギッシュな行動力と徹底した現場主義に周囲は驚いた。誰からともなく、米一は「宮古のブルドーザー」と呼ばれるようになる。
「最初に言われたのは、『できるものは上げなくていい。できないものだけを上げてこい』でしたね」と語るのは、下地米一市長就任当時に市の若手職員として仕えた安谷屋政秀だ。順調な事業はそのまま職員が進めよ、難航中の事業の問題解決こそ市長の仕事だ、というわけだ。米一市長は、休日にオートバイで現場を見てまわる。市が管理するウニなどの養殖場には、パンツ一丁で泳いで入る徹底ぶりだ。そして月曜日の朝に、担当者を呼んで説明を求める。当然、市の職員も現場に行かざるを得ない。市役所の雰囲気は一変した。米一市長以前の役所の仕事は、決められた手順に従って一つひとつ片づけていくものであった。そこに米一市長は、複数の事案や手続きを同時並行で進めることで、事業の件数を増やし、それぞれの進行を速めたのである。

◆島の景気浮揚策

米一市長の功績というと、地下ダムの建設、東京直行便の就航、プロ野球キャンプの誘致の三大プロジェクトが挙がることが多い。しかし、必要ではあっても効果が現れるまでに時間がかかる事業を次々と打ち出したことこそが、米一市長の功績と言えるかもしれない。
たとえば米一市長は、当時の大きな流れであった”獲る漁業から育てる漁業への転換”に注目し、前任者たちや現場の人々の努力を引き継ぎながら、ウニ・クルマエビ・タイワンガザミ(ワタリガニ)の養殖、タマン(ハマフエフキダイ)の稚魚の放流、パヤオの漁礁づくりをさらに推進している。
赤字を覚悟してもやらねばならない事業も実行した。公共下水道工事だ。下水道工事は国や県からの補助率が低く、財政が厳しい市町村はなかなか踏みだせない事業であった。しかし、もともと地下水に飲料水を頼る宮古で、地下ダムに農業用水を求めることも決まり、美しい海に観光客を集めようというときに、汚水の処理を先延ばしにはできない。米一市長は決断した。
「米一市長には、こき使われたよ。だけど楽しかったな」と振り返るのは、市の建設課長を務めていた棚原惠照だ。「就任すぐのころ、『何か案件はあるか』と聞かれたので、二重越山に連れて行って新しく道をつくることを提案しました。そうしたら、『よし!すぐやれ!』の即決でしたよ」と棚原は語る。平良市街地と西仲宗根地区のフタイグス越えは、馬一頭がやっとの狭さで両側に岩が迫る危険な場所もあった。それが自動車やトラックが通る舗装道路へと変わった。
決断が速かったのは、「第二次沖縄振興開発計画の期間内になるべくたくさんの工事をしようとの思惑もあったからです」と棚原は言う。振興計画は県全体の予算だが、能力のある市長がいるところに多く下りる。平良市の税収はまったく足りない状態にあった。振興計画で工事を増やせば、生活基盤が整うだけでなく土木建築業界が潤い、給与水準があがって市の景気が良くなる。そうなれば市の税収もあがる。国や県の公共事業を起爆材にして経済的好循環へと宮古島を離陸させる戦略が、米一市長にはあった。(敬称略)

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