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私見公論
2014年4月18日(金)8:55

トライアスロン宮古島大会 記念すべき〝第30回〟(3)/下地 信男

私見公論90


 今月4日、山本一太内閣府特命担当大臣は定例の記者会見で次のように発表した。「今般、30回目の節目を迎える全日本トライアスロン宮古島大会において、内閣総理大臣賞および内閣総理大臣杯を新設することと致しました」トライアスロン宮古島大会が国内最高クラスのイベントであるというお墨付きをいただいた瞬間である。これまで数々の表彰に輝く本大会であるが、今回の内閣総理大臣杯はズシリと心に響く格別な喜びがある。

 今や宮古島市の代名詞となった宮古島トライアスロンは大きなアンテナとなって国内のみならず世界へと宮古島を発信している。宮古島大会の魅力は何か…という問いに多くのアスリートからは「島の人々の温かい応援や献身的なボランティア」という言葉が返ってくる。体力の限界に挑戦するアスリートにとって、コース上で出会う島の人々の温かい「おもてなし」は自己の限界を超える力と前へ進む勇気を与えるものらしい。

 ところで、このトライアスロンというスポーツはどのような巡り合わせでこの島にやって来たのだろうか。一般的に知られているのは、約30年前、宮古広域市町村圏協議会にハワイアイアンマンレースのビデオが持ち込まれ、島興しの機運とタイミングを合わせ一気にレース開催へと進んだということだ。このことについては第1回の大会冊子「トライアスロン大会の取り組み経過」に詳しく記されている。

 また、第20回大会に発刊された記念誌「全日本トライアスロン宮古島大会20年の軌跡」には、大会に関わった男たちの熱い情熱的な秘話がつづられている。その中から感じ取れることは、宮古島のトライアスロンは偶然に生まれたものではなく、新たな島興しという時代の要請や島の持つ特異性、そして関わった人々の熱い思いが相まって誕生したということである。つまり、「天・地・人」すべての利に恵まれて実った島の宝なのだ。

 本土復帰前の宮古島は第2・第3宮古島台風の襲来や昭和46年の大干ばつなど甚大な自然災害に見舞われ、基幹産業の農業は大きな打撃を受けた時代である。島での生活が苦しくなると復帰景気に沸く沖縄本島や本土復帰で敷居がなくなった本土に生活の場を求めて島を出る者が後を絶たなかった。

 昭和40年からの10年間で島の人口は約16%も減少し、過疎の波が押し寄せた。島の活力を育むため交流を基調とする新たな観光産業の創出が求められていた。幸いに宮古島は四方を海に囲まれ、海から吹き寄せる風はさわやかでまさにスポーツをするには最適な環境である。この島の環境とトライアスロンを結びつけ、実現に向け動いた人物が元東急電鉄社員の田中清司氏である。無から有を生む創造の場には必ずキーマンの存在があるものだが、田中氏はまさにそのキーマンであった。氏は琉球新報の伊豆見元一社長や真喜屋明事業部長らを巻き込んでトライアスロンの宮古島開催に向けて強力に駒を進めていく。

 地域興しには実働部隊の「若者」、わが身を顧みずとことんまでやる「バカ者」、第三者の視点で地域の強みや弱みを分析できる「よそ者」の三者の存在が必要とされる。宮古島トライアスロンもこの三者がうまく連携、機能して産声を上げ今日に至っているが、この「よそ者」の存在と功績は大なるものがあった。他方、新たな「トライアスロン」という企画提案を受けて積極果敢に行動を起こした気概あふれる地元の諸先輩方を宮古人のひとりとして誇りとしたい。行政のリーダーであった伊波幸夫元平良市長、宮古体育協会の豊岡静致元会長や宮国猛理事長、医療救護の宮里不二雄氏、陸協の狩俣寛次氏ら、今日の地位を築き上げた歴代実行委員各位のご尽力は高く評価されるものである。

 離島県のさらに海を隔てた宮古島は、離島のハンディを背負った苦境の地であった。しかし、「宮古島だからこそできる」と、島人に自信と誇りを持たせたのがこのトライアスロンである。この道を切り開いた先人たちに心から感謝するものである。そして、いよいよ明後日、第30回記念大会の号砲である。市民の皆様の温かい応援をお願いしたい。
 (しもじ のぶお・宮古島市観光商工局長)

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