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私見公論
2014年5月9日(金)8:55

「木を見て森を見ず」からの発想の転換③/長嶺 巖

日中漁業協定の廃止を目指して
私見公論93


 宮古島から東45マイル(約90㌔)沖縄本島の間に宮古島の約2倍程の大きな曽根が南北に横たわっている。水深は浅いところで28㍍、深いところで350㍍。氷河期以前は大陸とつながっていたともいわれている海域がある。池間のかつお漁船宝山丸がかつお釣にいって発見したことから宝山曽根と命名され海図に載っている。宝山曽根は昔から、マチ類、タイ類、ハタ類など高級魚の漁場として池間漁協や宮古島漁協所属の一本釣漁船が盛んに利用している好漁場である。

 その宝山曽根に2年前から異変が起こった。私たちが一本釣操業をしている場所に中国船籍の大型(100㌧規模)のサンゴ漁船50隻が集団でサンゴ採取を目的に押し寄せてきた。私の漁船は4・3㌧で漁場から逃げざるをえなかった。なぜ突然中国のサンゴ漁船が押し寄せたのか。宝山曽根のサンゴ漁場を知っていたのか。はなはだ疑問が残った。そこで、宝山曽根(サンゴ曽根ともいう)の深海サンゴ漁場の開拓に情熱を燃やした池間島出身の偉大な先輩森田眞弘氏の略歴と多大な功績を残したサンゴ漁業の歴史を「水産人森田眞弘著作集」から引用して紹介したい。

 森田眞弘氏は池間中学校卒業後、県立水産学校から中央大学法学部を卒業して昭和12年農林省水産局広報官として勤務、昭和26年琉球農林水産局長に迎えられ、琉球漁業法や調整規則の起草、漁船保険組合の設立など沖縄の水産業振興に尽力した。

 昭和30年退官後、琉球政府からサンゴ漁業の許可を受けて深海サンゴ(宝石サンゴ)漁場の開拓に乗り出した。森田眞弘氏のサンゴ漁船は福太郎丸(19㌧)船長は高知県出身の中平兼太郎、機関長は長嶺隆博ほか11名の乗組員で池間島から出漁し与那国島近海、八重山近海、宮古島近海をくまなく調査したが、4年間大した成果をあげることはなかった。資金も底をつき、銀行からも見放され、奥さんからもう止めてと懇願された時、昭和34年9月10日ついに宝山曽根で世界に誇るサンゴ漁場を発見した。

 私も小学4年生で漁から久しぶりに帰って来た父がすごいことが起こったぞ奇跡に近いと満面の笑みで話していたことを思い出す。深海(太陽の光が届かない水深200㍍以深をいう)のサンゴ漁場の発見は宮古中に広がり、昭和35年6月には平良市で琉球サンゴ漁業者輸出組合が結成され、猫も杓子も先を争ってサンゴ採取の許可を申請した。

 当時琉球政府は漁業調整規則によってサンゴ漁船の定数を定めていたが、漁業者や地方公共団体の圧力に屈して条件がそろっていれば許可さぜるを得なかった。この年の許可隻数は実に70隻に達し、カツオ漁船やタグボートまでがサンゴ漁場に殺到し宮古島に一大サンゴブームが巻き起こった。

 しかし、狭い漁場に多くのサンゴ漁船が操業したことから、発見から10年で宝山曽根のサンゴ漁場は枯渇(こかつ)してしまったと森田氏は記述している。くしくも、琉球漁業法や調整規則を起草した本人として至極残念であったと思う。その反省にたって、資源保護をしながら「海を創る」という文章がある。われわれ漁業者への教訓として言いたかったのだろうと推察する。

 さて、前述した中国のサンゴ船がわが物顔でサンゴ漁業を実施しているが、それは平成9年11月11日中国との漁業協定が日本政府と中国政府の間で締結されたことによるものである。この日中漁業協定は宮古島東平安名崎灯台から糸満市喜屋武岬灯台を直線に結んだラインから西側(領海12海里を除く)を東シナ海とし中国が自由に漁業活動ができる内容となっている。また、漁業取り締まりも自国の漁船を取り締まるとなっていることからサンゴ漁業の許可制度がない中国漁船は密漁にあたるが中国の漁業取締船は密漁サンゴ漁船を取り締まらないのが現状である。現在中国の密漁サンゴ漁船は200隻が操業しているともいわれている。

 年間数㍉しか成長しない深海サンゴを40年以上保護してきた背景や漁業者の生命線である宝山曽根漁場の荒廃など予想しないばかりか、沖縄県の漁業者に何の話し合いもなく結ばれた日中漁業協定の破棄こそ天国から見ている森田眞弘氏への恩返しになると思う。
(ながみね いわお・池間漁業協同組合代表理事組合長)

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